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ユーモア小説と呼ばれたい


半年、無職で生き抜いた

 去年の暮れに前職を辞めた。ハローワークの職員が、けっこうしっかり相談にのってくれて、失業保険の受給が最大90日のところ、300日に伸びた。かかりつけの医師との相談や、1〜2ヶ月かけて書類作成も必要になる(ただしんどくてゆっくり準備しただけだけど)ので、誰もができるわけではないことはことわっておく。
 実際、体調が本当によくなったと思えるようになったのは、辞めて3、4ヶ月経ったあたりだったので、本当、運がいいと同時にありがたかった。

 失業保険が受給できても、収入は激減する。仕事を持っていたころと生活は変えざるを得ない。去年は数ヶ月休職もしていて、やはりそこでも月給よりは激減した休職手当が支給されるうちに、貯金だって減る。
 去年は体調不良と赤貧とに痛めつけられながら生き抜いた。そのうちに生活は本当に必要なものだけに削ぎ落とされた。
 振り返って……よく生きてこられたなあ。なんでここにいるんだろ。

人生の夏休みが終わろうとしている

 失業保険は10月あたりまで出るけれど、ギリギリまでだらだらしていよいよ無収入になるという、阿呆な小学生みたいなことはできないので、そろそろ次の収入源を求めて、立ち上がる時がきている。

 とはいえ、人生で本当に必要なものはもう見つかっちゃったかもしれない。物語さえ作れれば、作るための勉強さえできればあとはなんでもいい。 

やりたいことだけをする

 noteでも「やりたいこと」が話題に上がることがあるけれど、夢を語るときの熱量はひとそれぞれ違うだろう。

「小説家になりたい🔥🔥🔥🔥🔥」
 という人がいたとして、私の語気は
「作家になりたい……😗」
 くらいに力ないものだ。

 ただそれ以外にやりたいことが何もない。例えていうなら、広大な砂漠に、ひっぱったらやすやすと抜けそうな青い芽が一本出てるような。それが私の熱意だ。引っこ抜いてしばらくたつと、別のところからまたひょっこりと顔を出すような。弱そうなのに根絶できない雑草のような。

 20代の時、学校の先生に
「やりたいことだけやりなさいよ、でないと君、何もしないでしょ」
 と言われてしまったことがある。退学した後で、先生宅に遊びに行ったときのことだった。先生はもう亡くなったけど映像作家であられた。

 アラサーあたりまでは「やりたいこと」という言葉にフォーカスしていたが、アラフォーになると、「何もしない」という言葉の方を考えるようになった。

 大人になると、「何もしない」ということがいよいよ難しくなる。仕事をしなければいけないし、結婚しないとしても誰かの力を借りないといけない局面がある。老いに備えなければいけない。親の老いも相当に深まってくる。
 若い時は自分の境遇を憐れんで、社会への反骨を持っていられたかもしれないけれど、自己憐憫に浸ってる場合じゃないくらい現実問題が差し迫ってくる。

 そうなったとしても別にどうでもいい。真実何もしたくない。
 それが私の姿
なんだな、と思った時、「好きなことだけをしてでも何かしないと生きていけないよ、どこにも居場所がなくなるよ、マジで」という警句に響いてきた。ありがとう、先生。

 だから、いまいち現実感も熱意もないけれど、やりたいことだけをやろうと思う。私は作家になるぞ。おー👊

5月はヒリヒリする

 自分の将来のことと、目先の仕事のことを意識し始めたので、GWに入ったあたりから毎日そわそわした。落ち着きがなくなると消費行動を起こしたくなる。作品制作のリサーチを言い訳にして本を買い込んだ。

前置きで記事1本分くらいの分量になってしまったけれど、ここからが本題である。

「変」が好き

ゴーティマー・ギボン

人生の夏休みが終わっていきそうな予感を受けて、大好きなドラマを見返した。Amazonプライムでしか観られないけど、「ゴーティマー・ギボン 不思議な日常(Gortimer Gibbon's Life on Normal Street)」という子ども向けシリーズドラマだ。

 私は家にテレビがないので、Aladdinを設置して配信サービスを利用している。恋愛ドラマとかクライムサスペンスとか、もっと観るべき大人向けドラマが山ほどあるのに、子ども向けドラマを愛している。

 同じような子ども向けドラマで「まほうのレシピ」も人気だけれど、「ゴーティマー・ギボン」には13〜15歳の子どもたちが経験する、二度と戻れない日々が描かれていて、眩しいけれど切ない。名作に必要な「不可逆的な変化」が「子供の成長」とリンクして描かれている。

白鯨 - ハーマン・メルヴィル

 名作だということは聞いていたけれど、いったいどうやって切り込んだものか決めあぐねていたところ、映画『丘の上の本屋さん』で、店主のおじいさんが、少年に『白鯨』をレコメンドしていて、「子供に読めて、私に読めないはずはない」と奮起した。

 白鯨は、少なくとも上巻は、イシュメールの前に広がる冒険と滑稽の世界を、少年の心で無邪気に楽しむのがいいと思った。手放しで楽しめるほどの威力が確かにある。

神を見た犬 - ディーノ・ブッツァーティ

 この本を見つけた時、本当の目的は内村鑑三の『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』だった。紀伊國屋の光文社文庫の棚を眺めていて、キリスト教関連書籍にアンテナが立っていたので、「神」というワードに惹かれたというわけだ。

 キリスト教世界を舞台にしたり風刺したりというのは、海外文学でよく見られる手法だ。日本の作品にも見られるけれど、キリスト教が社会的なものにはなっていない。SFでは世界を再構築するにあたって「宗教の再解釈」は定番だ。作家は必ずしも信徒でないが。

 光文社の話に戻ると、内村鑑三とブッツァーティを買って帰って、結局のところブッツァーティを読み込んでしまった。イタリアのカフェにいる物語好きなおじさんが、身振り手振りで奇想天外な話をしてくれる、そんな雰囲気がある。

坊っちゃん - 夏目漱石

 坊っちゃんを読むと、冒頭でまずツッコミを入れてしまう。主人公が二階から飛び降りて腰を抜かし、お父さんは主人公の体を気遣うのではなく二階程度の高さで怪我しやがってと怒り、主人公は次は失敗しませんと言い返すくだりだ。ズレがおもしろい。

 

基本的には絶望している

 作家になるぞ、おー👊
 と言ったのと同じくらいの熱量で、私は絶望している。牛乳から脂肪を抜いてもスキムミルクが白い程度には、普遍的に絶望がある。
 世の中はどこまでも暗く酷くなれることは承知の上で、心身虚弱の人なら死なせられる程度の量の絶望は知っている気がする。

人は圧倒されるような失意と苦悩のどん底に突き落とされたときには、絶望するか、さもなければ、哲学かユーモアに訴える。

チャップリン(中里京子訳『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』より)

 しかし、己の絶望を理由に人を蔑めることは絶対にしないという選びをしたところに、自分の強さや優しさ、楽観がある。人は簡単に傷つくことを知っている。自分にも人を傷つける力があるけどしない、『本当にいい刀は鞘に収まっている』ものだ。そしてなんなら同じ力で笑わせてみたい、というのが、創作活動において私を救い、焚き付けている。



 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるため、作品を作り続けるための全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。

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▼文体について考え始めた記事

▼小説教室の体験をまとめた記事

▼創作活動の方向性を模索した記事





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