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宵曙の書(よいしょのしょ) 【1000文字小説 #011】

ある山奥に、500年の修業を収めた道士が住んでいた。
修行のために人の及ばぬ領域に分け入ったときには、まだ青年だった。
山の夜は恐ろしいものだった。
獣たちが動き出す気配に死を覚え、
月のない闇は己の存在を溶かした。
夜が明けて、曙に染まる空を眺めたときの安堵は言い表しようがなかった。
苦行の果てにわざが実を結んだときの喜びもまた、名状しがたいもだった。
彼は秘技の数々を、
『宵曙の書(よいしょのしょ)』にしたためた。

沢山の武人、僧侶たちが彼に教えを乞うたが、
修行の厳しさに、皆伝となったのはただ一人の弟子だった。
弟子は恩師のおわす山を自分が踏み荒らすことは忍びないと考え、
隣の山をその住処とした。
学ぶべきことのすべてを体得した弟子もまた、
修業の苦労、恩師の言葉、葛藤の全てを書物に記した。
世俗を断ち、永遠とも思われる、心と身体を苛む鍛錬の中で、
師の教えが彼を導くただ一つの燈火だったことをおぼえ、
その書物を
『燈乞書(どっこいしょ)』と名付けた。

人々は彼らのたゆまぬ求道心と師弟愛を讃え、
厳しい労働の場で
「よいしょのしょ、どっこいしょ」
と口にすることで慰めと力を得た。
その後長引く戦乱の世を経て、
宵曙の書も、燈乞書も、行方が知れなくなった。
今ではその掛け声だけが残っている。


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