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モヤモヤをありがとう

小説教室で赤をいっぱいもらった

 一ヶ月ほど前に仕上げて提出した物語作品に、講師からの添削がやまほどついて返ってきた。

 教室に初登校するまでに、講師の小説作品は一読しており、自分が馴染みにしている題材ではないものの作品世界に没頭でき、文章もぐいっと迫りくる感覚があって尊敬していた。その先生にここまでしていただけることが驚きで嬉しかった。

 先生の作品で「ここがいい」とか、作風を把握しておけたというのは教室に臨むうえでいい選択だった。先生の目指す文学と、自分の目指す物語の差異を頭の片隅に置いておいたほうが、批評を冷静に受け止められるからだ。

 我が子同然の作品に他者からの突っ込みが入れば、動揺したり抵抗感を覚えたりするのは当然だ。

 私は「文章力がないから伝わらない」というのはあまり気にしていない。日本語としては正しいのに、ぜんぜん共感できない、同意したくないという作品があるからだ。
 本の帯では大絶賛されている。確かに人間の心理は描かれていると言える。ストーリーに起伏がある。最後まで読めなくもない。でもなんだこれ……と思う作品もある。美しい文章にいい知れぬエゴがしのばせてあったりして……モヤモヤさせてくるのがこの小説の目的か? と思わせられることもしばしばある。
 そういう小説をうっかり引いてしまうと、「日本の現代小説なんてもう買ってやるもんか」と思ってしまう。ミニコミ誌に載ってる短編の方がよっぽど肉薄してくるじゃないか、と思う。

 小説が人を楽しませるものだとしたら、作者が振り切ってわけわからない地平めがけて突っ走っている、その様子を眺めることが私のエンターテイメントなので、物語において「わかる」必要がどこまであるのか、その境界を探るのも創作の課題に入ってくる。

 執筆動機は、残念なものとの出会い、うまく伝わらなかったこと、人との摩擦で強められることも多い。そういった意味では残念な物語との出会いも必要なのだろうか。絶望を植え付けてくるという意味では。どうせなら良質なインスピレーションだけで精神世界を構築したいものだが、物質世界が上質だけでいられないように、濾したものだけで心を作り上げるわけにはいかないんだろう。

どのように日本語を鍛えるか

 学術書とか和訳本を読むことが多かったので、美しい日本語表現を使いこなせるようになるべきかなと感じている。

 使いこなす方法論としては何をすればいいかわかっている。写経……作家の作品を丸写しすることだ。

 お手本にする作家や文学作品の選定が難しい。私はヒューマニズム系、日常系小説が全般的に苦手なので、選択肢はそこで大きく削られる。

 夏目漱石は好きだけれど、そして結局落とし所は夏目漱石だろうという予感もあるけれど、古すぎないか心配している。

 芥川龍之介とか、太宰治とか、三島由紀夫も美文で有名だけれど……川端康成もいいと思ったけれど……自◯した作家はどこか心を任せきれない。

 「日本語のお手本」と気軽に言うが、作家として世界観を築き上げたのだから、文豪たちの文体もおのおの相当に癖が強いと言えるのではないだろうか。文豪の文体に秀でたところで出来上がってくるのは森見登美彦、ということになりはしないだろうか。

 またひとつモヤモヤしはじめる。

さて次だ

 「SF・ファンタジーがを書きたい」と言うと、さまざまな作家の情報が舞い込んでくる。SFと、美しい日本語文学にはまたそこに境界があるような気がする。日本語の勉強とSFジャンルの勉強は両立させられるのかチャレンジだ。

 アラフォーにして、つぎつぎ課題が湧いてくるので困っている。今一番大きな心配は、人生の夏休みを終えて仕事に復帰したときに、自分の目指す物語を作り続けられるのだろうか。それ以前に、いつ人生の夏休みを切り上げようか。

 私は35万文字を8ヶ月かけて書き上げた。当時、日本語表現力はいまいちだったろう。それでも書き上げた。完結させることができた。そこまでやったのは、なぜだろう? この作品は私の人生になんの意味をもたらすのだろう。意味をもたらして欲しいと切に願って書き上げたのだけど、未来にならないと、全くわからないことに賭けたのはなんでだろう?

 とてもモヤモヤする。モヤモヤは、やはり次の作品を書き上げることでしかはらせないだろう。



 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるためにやった全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。



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