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書き上げるまで

 2023年冬。私はある物語を書き上げるために仕事を辞めた。

 健康上、仕事上の問題もあったが、当時6割ほど構想が固まってきた物語に、あと少し労力を費やし、あと一歩踏み込むことができれば、絶対もっとよくなる、後悔しないと思ったからだった。

 在職中と合わせ、通算で八ヶ月かけて物語は書き上がって、然るべき処置を取った。

 分量としては本2、3冊分になる。35万文字程度だ。ここでは物語それ自体を話題にはしない。

 いまここで重要なのは、私が何者でもない、ということだ。

 仕事に就いておらず、同人作家、職業作家でもない。ライターでもない。作品を納得いくまで書き上げた、アラフォーの女がいる、というだけだ。


何者かになる

 執筆中は、寝ても覚めても、書くことを考えていた。書き続け、考え続け、資料を漁り、小説の書き方の本も何冊か読んだ。

 ベッツィ・レーナーの名著『ベストセラーはこうして生まれる』によると、今の私は「誰にも知られていない期間」にあたる。

 あともう2、3歩踏み出せば40歳になろうとしている。幸いなことに多少斜に構えることを覚えて、視野が広くなりつつある。

 それで思うには、世の中には何者かになりたい人のなんと多いことか、ということだ。本人すら意識してないんじゃないかと言うほど、「何者かになりたい」という願い、「何者かになるべきだ」の誘惑は強い。
 他方、何者でもないまま生きる人々も確かにマジョリティとしている。生涯を無意識のうちに無名で過ごす。その人の生きる社会の中で居場所はあるにしても。そして、マイノリティとして、積極的に、無名を通り越して無色で過ごしたいと願う人々がいる。

 私が仕事を辞めると周囲に息巻いたときには、「作家になる」と豪語してた気がするが、それなりの分量を書き終えて、「作家になりたい」情熱は手応えと言えるほどにない。いい作品を作り上げるために、できることは全部やると言ううちの、手段、戦略、悪あがきの一つなのだ。それは私が在職中、いい仕事をするためならなんだってやると思っていたことに共通する。

 しかし諸君、今までの社会生活を振り返ると、立場のない人への世間の目は冷たいと言わざるを得ない。この場合は「会社員」みたいな漠然とした肩書きでもいい……いわゆる「属性」と言ったらいい。

 私は6年ほど前に6ヶ月ほど無職でいたことがあるが、そのときの「この人はなんなんだ……」という周囲の視線がわりとキツかった。そのあと、そこそこの企業に就職した後、周りの私に対する見方が明らかに変わったのも覚えてる……覚えてるともさ。

 いかな心の優しい人であっても、何者でもない、無属性な人を、ありのままと言わず、貴婦人か貴公子であるがごとくに扱うことは難しい。何をもって個人をリスペクトするのか。個人の属性と、その修練度に依存してしまうのだ。何者でもなくていいのは、13歳くらいまでかもしれない。

 さらには、自我が芽生えた後では「何者でもない自分」を許せる人もそう多くはないんじゃないか。だから、仕事を辞めるには勇気がいるし、誰かとのつながりが欲しいし、いろんな職業が生まれ続けるし、実績の数値化が尊ばれもするのだろう。


何者かでいることを選ぶ

 私の本音は、何者にもなりたくない。職業寺山修司、みたいなことが許されたいとも思っていない。でもさらに一歩踏み込んで考えるなら、それは「相手から惚れられるまでは頑張るけど、振り向かれたら一気に冷める」みたいな人でなしと似た無責任さなんじゃないかとも思う。人生に覚悟や態度は必要だ。そんなことを自分の物語でもなんとなく意識した記憶すらある。

 何者にもなりたくないのに、黙っていることができない。だから書く。書くからには上手く、可笑しく書きたい。目標がないと人も動かせない。選び取り、それ以外を捨てるからこそ開ける道がある。

 私にあるのは絶望とか無気力とか、敗北感ではない。むしろ、現代日本でそれを感じずに生きろと言う方が難しい気がするけれど、そこには全力で抗いたい。それにしても自分の感じている曖昧さをスパッと表してくれる言葉や、安心感を与えてくれる価値観や、充足できる職業はない。

 身のまわりにあるものがほとんど「違う」ことはわかっている。「違う」ばっかり言っていると、不機嫌な「違う違うおばさん」になってしまうのではないか。40に近づいたある日、ふとそんな危機感が芽生えた。じゃあ何が正解なのか。自分にとっての「OK」は何か、詰まるところ自分が欲しい幸せとは何かを語り尽くすために、物語として一個の世界を成立させたんだと思っている。

 物語は書き上げた。でもまだ評価はされていないという、きつめのコントラストにより、自分史上稀に見る「何者でもない感」を味わうという、望外な極限状態に襲われている。

 誰からも求められず、ただ止むに止まれないという一心で35万文字を費やして物語を閉じた、ということの方法論は、同じように、何者でもないけれど物語を紡ぎ出したいと考えている人の励ましになると考える。なぜなら私もそうだから。私は「孤独」についてはチート能力かって言うくらいに耐性が強強なのだけど、他の人の言葉、生き様には、お好み焼きの上の鰹節ほどに影響を受ける。吸収したり試してみたり、反芻し、糧にする。

 ストーリーテリングの権威、ロバート・マッキーによると、作家は誰しも自分に居心地の良いジャンルがあると言う。ラブコメ、ホラー、歴史物、ファンタジー、SF……という王道以外にも、日本では異世界転生、二次創作、純文学、同人なども、作家に用意された「居場所」だと思っている。 


自分にとっての「小説」を探す

 「作家」とか「小説」とか、ざっくりと言ってしまうが、作家本人がイメージする「小説」も多様にある。ラノベに親しんだ人にとってはラノベが小説だと思っているだろう。たまに、私にとってこれは「噺」だと受け取れるものが、「小説」だと言う人がいる。「噺」っていうのは感覚で言ったことだが、寸劇とかスナップっぽいと思われる文章の並びのことだ。文章量は関係ない。文庫本一冊を費やしても、物語のための物語に終わってしまうような小説がある。だとしても、物語としての円環を閉じるということにこそ価値がある。だから私が何者でなくても物語を閉じたと言うことは、誰に褒められなくても、自分ではとてつもなく意味のあることをしたと思っている。

 自分自身にとっての「小説」とは何かを考えるにはちょうど良いタイミングに来た。その一歩手前に、自分の表現したいものと媒体はマッチしているかというのも検討してみるべきだ。

 私は自我を持ってから2、30年経ったけれど、その間いろんな仕事をし、創作にも手を出し、さして誰にも知られはしなかったが、ようやく媒体とのマッチ度が高まってきたと思っている。これまでしてきたことと、これからもやりたいこととがひと繋ぎになっているかで判断できるとすると、私と文章、とくに物語を作ることとはそれなりにマッチしていると思っている。

 8ヶ月の間、決して万全とは言えない心身をなだめつつ、過集中による破壊的な作業量を生き抜いた。手元には4冊のノートと設定資料、参考資料が残った。

 少し休養を取り、まただんだんと次の物語に潜る準備が整いつつある。整える過程で、自分にとって「小説」は、どうすれば成立するのか、35万文字の物語制作の振り返りをしてみたい。

 何者でもないのに「書きたい」という気持ちを抱えた人が、数十万文字で自分の世界を語り尽くすための全努力だ。なんの保証もないのに、一作品を書き切るとはどう言うことかをなんとなく追っていただけたら幸いである。


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