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ダイアローグは最後に悩む

ロバート・マッキー『DIALOGUE』で物語に磨きをかける

物語制作も終盤

 さあいよいよ第三稿で物語に磨きをかけるか、というタイミングで、ロバート・マッキー氏のストーリーテリング三部作のうち未読だった『ダイアローグ』を読んだ。終盤になった理由は、我が心の師マッキー氏が、「ダイアローグを考えるのは最後」と語っていたことに忠実だったからと、単純に、本を買うのを躊躇するほど生活費が不安だったからだ。
 三部作を揃えると一万円に届く。名著なだけに二次流通の値崩れも起こりにくい。

 実際これらの本は、素人が考えていることの全てを35万文字に吐き出させてストーリーテリングを完成させるほどの力があることは確かだと請け合いたい。早い段階でストーリーテリングとは「ストーリー」「ダイアローグ」「キャラクター」の3要素にある、と叩き込めたので、方法論の中で迷子になることがなく、自分の表現したいことに集中できた。

脚本についての教科書を、小説用に読み替えられるか

 マッキー氏の『ストーリー』はストーリーテリングの構築方法について書かれていて、『キャラクター』は文字通りキャラクター設計についてである。

「ちょっと待て……小説でいう地の文の講義がないじゃないか……」
 という疑問への回答が『ダイアローグ』にあると言いたい。煎じ詰めればストーリーテリングとは作者の長い語り、話芸、心の中のダイアローグの紙への転写と言うこともできるからだ。逆に言えば『ダイアローグ』になってやっと「書き方」の話題に触れられていると言える。

 『ダイアローグ』には当然日本文法の話も含まれていない。「中学生レベルの英語理解があれば、ネイティブと話すなんてちょろい」という都市伝説よろしく、原則的な文法理解があれば人に伝わる物語は作れるだろうし、いっそ新しい言葉を作り出すことこそが文学の楽しみでもある。むしろマッキー本のように硬質で長い本を読みこなすために文法を駆使したような印象さえある。

ダイアローグの一般的な悩み

 マッキー氏が「ダイアローグは最後に考えよ」と明言してくれたおかげで、物語の全体が組み上がるまで、いまいちだと思うセリフがあっても立ち止まらずに書き終えることができた。
 書いている途中で「ここにはこういう流れをつくる会話が入ってきてほしい」という意味で、仮置きの会話を挿入した。「会話のディテールにこだわる」という作業を、ひとまとめの作業として切り出すことができた。
 仮置きした会話が最終稿まで残ることは当然あったし、思いついた時にはしびれるほどいい表現だと思ったものでも、シーンの目的に合わないものは最終的には削り取ることもあった。最後の段階で新しく組み込まれたセリフも当然あった。

ダイアローグについての一般的な悩みは二つに大別されるかもしれない

  1. 中身についての悩み:「なぜ」書くか、「何を」書くか、「どのように」書くか

  2. 会話の回し方、複数人の会話の整理方法

中身についての悩み

 マッキー氏の方法論が優れているのは、「このセリフはなんでここで語られる必要があるのか」という「ダイアローグの存在意義」については、物語設計の序盤の作業をこなすうちに自然と組み上げることができるところにあると思う。

 「なぜ」のところが据えられれば、「何を、どう書くか」は自ずと立ち上がってくる場合がほとんどだと思う。

 それより以前に、「セリフをどう書くか」自体に立ち止まる人は、もしかしたら少ないかもしれない。物語を作りたいと願う人は、それなりに言いたいことが胸に降り積もっていて、キャラクターなり描写なりに代弁させる行為が、つまりは小説執筆と言えるからだ。
 だからセリフを書くと言う作業を、ある意味デザートとかメインディッシュに捉えている人もいるはずだ。

 逆に現実世界で人との会話が苦手な人は、物語の中の会話もぎこちなくなるかもしれない。だとしてもモノローグ的な手法を取る小説は当然のように存在している。

 かように文学の世界は自由である。

会話の回し方、複数人の会話の整理方法

 セリフ、ダイアローグにまつわる悩みで表面化するものは、文章の中でどのように自然に存在させるかと言ったところで、目に見えやすいだけに議論が集中しても不思議ではない。

 つまりは、太郎に次郎、三郎、四郎が登場人物だとした時、どのセリフを太郎が言い、どれが次郎の発言なのか、三郎や四郎が割り込んできた時はどうするのか、読者に分かるように、かつ文体として自然に見せるにはどうすればいいのか、という議論だ。

 私は、日本語という言葉はキャラクター文学においてアドバンテージとディスアドバンテージがあるような気がしている。

 アドバンテージとは、数文字足すだけでキャラクターを示唆できること。
 要は「わかった」というセリフがあったとしたら「わかった」にするだけで、女性が発言していると示唆できてしまうのだ。
 でもこれが英語だったら?"got it."という言葉にはあきらかな性的な響きがないだけに、誰がそれを言ったのか、補足したり文脈を作ったりする必要が生まれてくるはずだ。

 ディスアドバンテージとはこのゆえに、一文字か二文字の文字を足す足さないでキャラクターを区別すればいいという安易さに陥ったりはしないか。また、キャラクターの個性さえ際立っていれば区別は当然用意になっていくとして、考えるのは個性の特化でいいのか?
 例えば、語尾に「ペポー」をつければ必ずあるキャラクターを指し示す、というような。

 どちらに転んでも小手先になりはしないかという、素人のいらん心配である。

 このように一度振り切って考えてみると、メリデメはあるにしても、キャラクター設計とダイアローグは緻密にリンクさせられるはずだ、せっかく設計の手間をかけた限りは、これを大いに利用しようじゃないかという結論に至る。

 つまり、「お腹すいたペポー」とまでは言わせなくても、昼ごはんのことを「昼食」「昼餉」「昼メシ」「ランチ」「お昼ご飯」と口にするキャラクターは、それぞれ別の設計があるはずだ。

男性的/女性的
知的/感覚的
クセが強い/寡黙
複雑な物言い/単純

 など、キャラクター設計に絡めてダイアローグを組み立てると、大人数の会話になっても書き分けることができ、誰が何を言った、というような地の文での説明も最低限で良くなる気がする。

 それを安直と思われない範囲で忍び込ませていくのが、テクニックと言われることであってほしい。

書かれてないことがとても多い

 とは言え私は未だ、自分で書いたこと、書く上で学んだこと、書く中で考えたことを洗い出している状況なので、自分の見立てがどこまで的を得ているのかもはっきりとわからない。

 しかし構造をしっかり組み立てた上で、可能な限り削ぎ落とされた、必然的な表現を目指したいという思いは、作り終わった後も引き続き持っている。

 会話を作りながら、先人達はダイアローグ周りの処理をどのようにしているか、描写はどこまで緻密に行なっているかを調べた。案外、自分は「見た」と思ったはずのことが、実は書かれていないということを発見したりもした。

 つまりは、「ここで二人は互いに気まずく挨拶を交わしたはずだ」と思ったけれどそんなこと書いてない。あくまでそうだろうと想像させられたのだ。イメージの中では花が飛んで空気の匂いがするほど広がりのある景色が描かれたはずなのに、書かれている文章はとても簡潔だとか。
 あとは4人での会話合戦のはずが、場面には4人いるけど、発言力のあるキャラクターと、それに対抗するキャラクターのデュアローグ(対話劇)が軸で、後の二人は飾り程度だとか。そう言った場面が複雑であるべきと思っているのは、ドラマや映画の中で観たものと重ね合わせているだけで、小説では単純化されて書かれている場合が多いとか。

 書かれていること、そこから想起したこと、を意識して切り分けていく作業で、学び取れる技法があるような気がする。

 文章が惜しみなく与えてくれる豊かさに、自分も読者として出会いたいし、作者として与えられるようになりたい。

 


 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるためにやった全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。

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