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なぜ、小説に「彼」「彼女」を使わない方がいいのか考えてみた


これからの指針

 本題に入る前に、noteのインプレッション(ここではスキをいただくことと定義)について考察したことを書いておきたい。

 私は自分の記事に20以上「スキ」がつくと、健闘できたなと思う。20スキを超えた記事について振り返ると、2点特徴があるような気がした。

  1. 訴えたいことが明確

  2. 情報提供をしている

 noteを書くにあたって、自分が心がけていたのは「1.訴えたいことが明確」のみだった。むしろリンクなどの情報提供は避けてきた。単純に文章の流れが削がれて読みにくいかなという老婆心からだ。

 でも読者にとっては、本やWeb記事のリンクを張ってあったほうが有意義な情報と受け取れるのかもしれない。これからは適宜参照リンクを張っていきたい。(書籍へのリンクはAmazonではなくできるだけ出版社に張ることにする)


小説教室の先生からもらった指摘

 小説を書く人にとってはおなじみかもしれないが、日本の小説では「彼」「彼女」という三人称代名詞は使わない方がいいとされている。

 ついこの間参加した小説教室でも、先生から指摘を受けた。

 私は海外小説から多大な影響を受けているので、自然と「彼(彼ら)」「彼女(彼女ら)」を作品中で使ってしまう。お祭り状態である。

 私が三人称代名詞を使う理由は、「その方が文をすっきりできるから。硬質な印象を作れるから」という考えからだった。文章を書く上で、文をすっきりできるのは、考え方として正解な気がする。

 しかし先生にとってはそうではないらしい。

素直に従ってみるタイプ

 本意ではないにしても、指摘されたらとりあえず試してみるのが私の態度である。手元にはまだ講評待ちの二作目がある。Wordで作成した、8000字程度の短編だ。試しに、ここでも踊り狂っている「彼」「彼女」を全部書き換えてみることにした。

 Wordの文字検索で「彼」と打ち込むと、20件近くも見つかった。このときすでに、さすがにやりすぎかなと怯んだ。あるいはこれらを全部書き換えても、自分の作品は成立するか不安もよぎる。しかしもう決めたことだ。

他の日本語ルールも駆使して、三人称を削り取る

 三人称の部分は、適宜名前や他の語彙に書き換えた。
 日本語のルールに、「主語を省いてもいい」というものがある。日本人の曖昧さを象徴しているとされ、私は主語から逃げたくないと心のどこかで意地を張っていた。でも「そういう言語なんだからしかたない」と開き直り、なくせる主語は削り取ることも試みた。

案外うまく行った

 思い切って試して良かった。8000字の物語から、20個近くあった三人称代名詞は悉く消え去った。しかし一個、どうしてもセリフの中で引用文が必要で「彼」を残す必要があった。イヤミのつもりじゃないが、シュールさは醸し出された。作品への思い入れが増した。

徹底したからこその気づき

もしかしたら、考えるのを放棄してたかもしれない

 私は文学的考察の上に三人称代名詞を使っていると思っていた。
「彼」「彼女」を無くすには、登場人物の名前以外にも、それに変わる語彙が必要だ。「友人」とか「父」とか「夫婦」とか。
 
 「彼」「彼女」を使えばそれを考えなくて済む。その代わりに読者は「彼」「彼女」に内包される意味に、ほんの少しだけ立ち止まり、物語のスピード感も落ちる可能性がある。それは作者としてやっていいことかどうかまでは考えていなかった。

 「彼」「彼女」と書いた時には「親しい男友達」とか「自分を傷つける女」という意味を暗に示したい、という作者の意図もある。あるんだけど……あるんだったら、作品のなかで書いて表現する必要性も問われていると思う。

 もちろん、考えた上であえて使うのはいい。ただ、ちゃんと自分で分かりきった上で使えってことなんだと思った。表現を曖昧にするということは、それだけ作者が自分の逃げ道を用意することでもあるから。

体言止めNGの原理にもつながる

 「体言止め」は「文の最後を名詞で終えること」だ。

例:街路には満開のモクレン

技法として存在しているけど、小説や記事に使ってはいけないとされている。近藤康太郎氏は『3行で撃つ』の中でわりと強めにNGを出している。

 とりあえずは「体言止めは使わない」を頭に叩き込んではみたものの、「なぜNGか」は唐木元氏による『新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング』の中で説明されていた。

 それによると、「体言止めは、名詞の後に続く文章を読者自身が補う必要があり、エネルギーを使わせてしまうから」らしい。

 上に挙げた例で言うと、「満開のモクレンがどうした」まで言い切る必要がある。

・街路には満開のモクレン(が咲いている)
・街路には満開のモクレン(が美しい)

 作者は確かに「読者に想像してほしい」と願っていると思うが、読者だって読書に投入できるエネルギーに限りがあるので、どこにエネルギーを使ってもらうか、一歩も二歩も踏み込んで、作者自身が考え抜く必要があるということだろう。

 そこまで考えた上で作品を成立させるから、文章は研ぎ澄まされて価値が生まれるのだと、私は結論づけた。

作例

よしもとばなな

 とはいえ日本人による文学で「彼」「彼女」が駆使されている作品は挙げ出したらきりがないほどあると思う。最近読んだよしもとばななさえ。おそらく私が三人称代名詞を正当化するのもばなな作品による影響と言えなくもない。

ディーノ・ブッツァーティ

 「彼」「彼女」が多様される文章に独特な世界観が生まれるように、あまり使われていない文章にもそこにしかない空気感がある。微妙な差異に目を配るようになった。すると海外作家だからって三人称代名詞を多発しているわけではないと気がついた。たまたま読んでいたブッツァーティは少ない。これはイタリア文学の特徴なんだろうか。関口英子氏の名訳によるところなのだろうか。

 そう思って内田洋子氏の著作もちょっと調べてみた。イタリア在住の日本人ジャーナリストで翻訳やエッセイも手がけている。私は氏の文体の影響も多大に受けている。うーん。「彼女」とか「彼」がわりかしいらっしゃる気がする。

 

 海外文学の手法に詳しくないので、三人称代名詞の考え方について、詳しい方がいたら、他の作例など、コメントで教えてくださると嬉しいです。



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