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会釈とかいうコミュニケーション

片岡義男先生の新作が発売された。
実は発売日まで知らなくて、当日にツイッターで見て電撃が走った。買いに行かねば。

仕事の帰り道、大きな本屋を目指して、大きな駅で途中下車をする。事前に調べた書架をめざして歩く。

ところで、本屋に行くたびに思う。
図書館の分類はなんと合理的なのだ、と。
新しいという概念がないから探しやすい(あたりまえ)。本を無意識に十進分類法で分類してしまうようになってから、本屋、ブックオフが歩きづらくて仕方がない。

お目当ての本に手を伸ばそうとしたら、直前に同じものに手を伸ばしているお兄さまがいらした。
ドラマに出てくるような「あっすみません」ののち、お兄さまは手をひいた。
私は遠慮なく、上から2番目のものを抜き取った。

全く知らない同士であるお兄さまと私は、同じ本を目指して大都会を泳いでここまで来た。なんだかそれが嬉しくて、
「新刊、嬉しいですね。読むの楽しみですよね」そして「なんか図々しく手を伸ばしてすみません」という気持ちを込めて、ちょっと苦笑いをしながら会釈をした。

そのお兄さまはちょっと驚いたような顔で、私の目をまじまじと見ながら会釈を返してきた。
「なんで一番上を取らなかったのだろう」とか「この小娘はどこで片岡義男を知ったのだろう」みたいな気持ちが込められていたのかな?と思う。

私の喜びが伝わったのかはわからないけれど、会釈というコミュニケーションは面白い。

アメリカの西海岸に数ヶ月滞在して気づいたことがある。この地では、会釈になんの意味もない。

車が歩行者を譲ってくれた時、無意識に会釈をしていた。ある時、同行していた人(現地の人かは忘れた)が、お礼の意味を込めて片手をあげていた。そして気づいた。

あっそっか会釈って意味ないのか(笑)

なんか目が合っちゃった時は、にっこり笑う。
昨日のようなことがアメリカであったならば、HiとかThanksとか、「新刊楽しみですねぇ」とか言うと思う。同じ本を目指してやってきたのだから、もはや他人ではない。みたいな距離感が、アメリカ西海岸にはあった。

そう考えると、伝わらなかったとしても「会釈」というジェスチャーはめちゃくちゃおもろい。相手のことを推察しすぎだ。

駅に向かって再び雑踏を泳ぎながら、会釈について考えてしまった夜だった。

今はやたらと、カレーが食べたい。

いただいたサポートでココアを飲みながら、また新しい文章を書きたいと思います。