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小走りできる喜び、欲の主体であることの確認

大学4年生の楽しみといえば、
自分の専攻ではない学部や学科の授業をデザート感覚でつまむことだと思う。
デザートは別腹とはよく言ったもので、卒業を目前に知りたいこと、学びたいことはどんどん湧き出てくる。つまんだ、という表現があっているかはわからないくらい、印象的な授業が多い。

ある授業の先生とは、授業後に提出するリアクションペーパーとその返信でコミュニケーションを取って仲良くなった。
そのときの「お返事」の一つに
「いつまでも欲望の主体でいることを忘れないでください」とあったのが印象的だった。

いつも欲望の主体でいる

なにかをしたい、といつも思える

これはとても健康で健全なことなのだと、今年の冬眠から目覚めながら思う。


うつ症状/うつ病のおそろしいところはほんとうにいっぱいあるけれど、
おそろしいことの一つに「何もしたいと思えない」ということがある。
体力もなければ気力もない。何を食べたいとかない。なんならあんまり食べたくない。
楽しいことはしたい、でも何が楽しいかよくわからない、だから何もしたくない。
行きたいところはない、欲しいものもない、恋もしたくない、

書きたい話も、もちろんない。

何もしたいことがない、というのは、自分の中でけっこうつらかった。
なにかをしたいと思う気持ちが、一番欲しかったかもしれない。

仕事の帰り道、会社の一番近くの横断歩道を渡ろうと思っていたら、歩行者用信号が変わりそうになった。「あ、渡りたい」と思ったその時、ぼくは小走りをして向こう岸にわたった。

そしてまた思った。
「いま、小走りしたな」

冬眠している身体を起こして出かける時は、ちょっと早歩きすれば間に合う電車はあきらめるし、
階段は避けてエスカレーターまで歩くし、信号は点滅しそうだなと思ったら次を待った。早く帰りたいとか早く渡りたいとは思わなかった。そもそも身体がキビキビ動かないから、小走りなんてできなかった。

でも春が来た。
会社を出る時間は真っ暗ではなくなった。
昼間はコートがいらない日が増えた。
そうしたら自然に、小走りしてまで横断歩道は早くわたりたくなった。

欲しいものが増えた。読みたい本が増えた。
行きたいところができた。会いたいともだちが頭に浮かんだ。
食べたいものを自分で選べるようになった。

なんか、恋をしたいなと思うようになった。
まだまだ性欲といえるしろものではないが、好きな人にであって、できればその人と手をつないだりしたいなと思った。
その気持ちはいつか、性欲というげんきの証拠になって自分のもとに帰ってくる。


自分は三大欲求の強さを心身のバロメーターにしているので、
ちゃんと眠くなって寝たら眠くなくなって、
ちゃんとおなかが空いてご飯を食べたらおなかがいっぱいになって、
生理の前にはそれなりにムラムラして収まって、
という波が均等にやってくることで、ようやく元気を実感する。

たぶんもう、すぐ、すぐそこに来ているんだ、春が。

いただいたサポートでココアを飲みながら、また新しい文章を書きたいと思います。