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子なし夫婦、子供の代わりにペット飼ってるみたいに思われがちな件

先日、めでたく夫婦結成10周年を迎えた。

日頃から私たちは記念日や互いの誕生日を特に祝ったりせず、好きなときに旨いものを食べに行き欲しいものを買うため、これまで特別感のあるお祝いをほとんどしてきていない。

しかし10回目の結婚記念日となると…。
 

なんとなく特別に扱ったほうがいいのではという私の提案で、出張カメラマンを呼んで記念撮影する運びとなった。

大人二人世帯のため、これが初の家族写真。愛犬も同行し二人と一匹のメンバーで臨んだ。


2時間ほどの撮影は和やかな空気のまま終わったが、ノドに刺さった魚の小骨のように、なんとなく引っかかったモヤモヤが取れないまま…。

原因は…勧められたポーズに“犬の親的役割”を演じさせるものが圧倒的に多かったこと。そんなちょっとしたこと。

 

「◯◯くんのほう見てくださいね〜」「真ん中で抱っこしてもらって」などと指示があるたび胸の奥底から湧き上がってくる違和感。その感情を見ないふりするのが、けっこう辛かったのだ。


まず前提として、この撮影の目的は結婚10年記念であり愛犬家の撮影ではない。

そして私達は犬のことを子供の代わりのようには思ってはおらず、犬は犬。私の希望で私が飼っている、対等な3人目の家族である。


私は犬の母親のように見られること、見られたいのだろうなと思われることにものすごく嫌悪感がある。なぜなら、そんな姿は自分でもなんでもないと強く感じてしまうからだ。


…な〜んてこと言ったって普通わかってもらえる訳がなく、ヘラヘラと合わせていたので結局『愛犬と私たち』なカットばかりで終わってしまった。

思えば子供の頃からこんなことばかりだった。


なんらかのプロにとって、はたまた人生経験を積んだ者にとって、「多くの人が好ましいと思うであろう」型は定石となる。

ときに玄人の助言として、ときに信頼のおけるサービスとして、それらは「よかれ」という厚意で投げかけられ、彼ら彼女らは結果を見て満足そうにする。するべき仕事をしていると思う。

しかし私は(私達は)悲しいかな、いつだってマイノリティ側なのだ。


成人式のとき、結婚式のとき、その他あらゆる場面において。あらゆる「大勢にとっての正解」を自然と押し付けられ、そのたび言いようのない苦みを味わう。

女の子だったらこういうのが素敵に決まっている……いや、そんなの全然好みじゃない。

わかってもらえないこと、心の声を黙殺されることに対する絶望感、疎外感をこれまで脈々と積み重ねてきた。


本題に戻るが、子供のいない夫婦がペットを飼っていると「子供の代わりに飼っているんだな」と信じている人が体感として結構いる。

その人達の胸には「子供がいないと寂しいのだろう」「なにか世話をしたり愛情を注ぐことで心を満たしたいのだろう」といった前提があるのではないか。


大多数の方には理解してもらえないと思うが……私は母親になりたいと思ったことがない。そもそも女性としての役割を押し付けられること自体に強い抵抗がある。

犬を迎え入れたのは犬と暮らせる環境になったからであって、むしろ人間よりも犬といる方が好きなのである。森で暮らす勇気はないが私、若干もののけ姫入っている。

小さきものは可愛いが、お世話することを好き好む人の気持ちが正直わからない。ときおり水をやればいいだけの多肉植物ですら枯らす私にとって生き物の世話は大変な負担でしかない……5年間必死でやっているけれど。


といった具合に。

前にペット業界にいたとき目の当たりにしていた「◯◯ちゃんのお母さん」「◯◯ちゃんママ」なんていう“よかれ”にも正直なところウッとくるが、そこはグッとこらえる。そんなん指摘したら一発で『面倒くさい奴』認定まっしぐらだからだ。

勝手に親子にするなよ…と思いながらも、もしかしたら人というのは男女二人とその間に小さな守られたものがいる集団の型を見て美を感じたり、自然を見るような安心感を抱く生き物なのかもしれないと感じたりする。
 
そうでない形が不完全に見えたり自分の価値観が脅かされるような気がして、反感を持つ場合も少なくないのではないか。



つまり表題の件に限らず、日常のあらゆる場面でマイノリティの感覚はいつだって、存在しないものとされている。それが秩序だと言わんばかりに。


そう偉そうに言っても、私も他者に対していろいろ押し付けちゃっている一人だ。

例えばうちの犬は誰に似たのか犬同士の関わりが下手で、犬に怯えている感じさえある。それなのに私は子犬の頃から犬同士に慣れさせようと犬の保育園やドッグランなどに連れ出してきた。

ここにも「犬同士仲良くできるのが犬にとって当然幸せなのだ」という余計なお世話でしかない「よかれ」が潜んでいる。今となっては大反省。

同じような過ちを、私は人相手にも幾度となく繰り返してきたと思う。


多様性の時代と言われて久しい。
例えば性的マイノリティについての配慮も、本腰入れて学ばなければ触れることができないような資格の要るものでもないと思う。

むしろそんなふうに腫れ物にしてはならないのではないか。本来はごくシンプルに、自分の当たり前を人に押し付けず共に認め合えればよいだけのことだ。
 
 

私が女としての役割を押し付けられることに抵抗がある件についても、また別記事で掘り下げられたらと思う。

私たち同じホモサピエンスなんだけど、みなそれぞれに異なる。だからバランスが取れている。それこそが本来の秩序なのではないだろうか。





 

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