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生き切らないと生きれない


小児麻痺の施設に、週一、リハビリに行っている。

男子トイレから「だめだよ。叩いちゃ。痛いでしょ。」とスタッフの声が聞こえる。覗いてみると、

Aさんが、曲がった腕で必死に自分の頭をこづいている。それをスタッフが止めようとしているのだった。

話を聞くと、車椅子から椅子に移りたいのにダメだと言われたから。みんな移ってるから僕も移りたい。とのことだった。Aさんも移れない理由を頭ではわかってはいるのだけれど、ダメと言われた衝動が体の中でおさまらず、指を噛み、自分の頭を小突き続ける。

Aさんは、ちょっとした音の刺激でも全身に緊張が走る。瞬間的に全身が真っ直ぐに伸びて硬直してしまう。
椅子に座っていたときに、そうなれば椅子に丸太を立てかけたようなものだ。床へとまっしぐらに滑り落ちてしまう。マンパワーには限界もある。残念ながらスタッフが1日中、彼を見守っているわけにもいかない。

Aさんが、全身を振るわせてようやっと話をする。ぽつぽつと「僕も椅子に移りたい」

椅子にスタッフと2人がかりで硬直するAさんを移乗し、両脇を机で固めた。肘掛にもなる。ちょっとずつ、体から緊張が抜け、目が穏やかになってくる。念のためAさんの前にも椅子の背もたれ側を置いておいた。

すると、いつもはガチッと曲がって固まっている腕を自分でゆっくり伸ばし、背もたれに指をひっかけた。

体は、緊張が抜けて安定して座れている。部屋で誰かが物を落とした。バタンという音がした。ビクッと首が反らされたものの、滑り落ちることなく座れている。おだやか。他の男子が冗談をいって、ちょっかいをかけてくる。Aさんは笑いながら相手にを伸ばす。若干ふらつき、また腕を伸ばし背もたれに指をひっかけた。


身体が安心すれば、可能性は広がりだす。

体が安心していれば、自ずと必要な動きが生まれる。
安心していれば、自ずと体も感覚も心も広がりだす。

「だって、いつもできるわけじゃないじゃない。」「他の人たちもやりたいといったらどうするんだ。」「いつでも対応できるのか?忙しいのにできるはずがない…。」反論はいくらでもでる。社会的に考えたら答えは「やらないほうがいい。」それに限っている。

でも、最近思う。

「やった」と「やらなかった」その間には、とてつもなく大きな差がある。それは、頭で考えられるものではなく、時空を超えるようなもの。やったとやらないは、時間的な直線状に存在していない。やったとやらないではその後の世界が変わっている。この表現が正しいかわからない。うまく言えないけれど。確実に。
それは、Aさんにもわたしにもスタッフにも、その場にいた他の利用者さんたちにも、何かが必ず影響している。どこかでいのちが息を吹き返す。

可能性をつぶすもの

頭で安全を先取りして、可能性を潰していないか?
安全のためという、正当な理由を盾に、自分の不安回避、責任回避のために可能性を潰していないか?
正当な理由を、諦めるやらない自分を許す免罪符にしてないか?

いつでも、自分に問いかけなきゃいけない。


でなけりゃいつの間にか、患者さんも自分も生きるしかばねになっていく。


いのちをころすのはほんのちょっとの何か。

いのちをころすものは、ニュースで流れる不可解なものだけではない。
いのちをころすものは、実は、ほんの些細な何かで十分だ。それは私の中にもある。

自分の不安やしがらみの面倒臭さ、周りへの辻褄合わせばかりでチャレンジすることをやめてしまうこと。
ほんのちょっとの諦め、しょうがない。から、精神は蝕まれ、いつのまにか、見えない病が人生全体に蔓延する。気がつかなければ確実に命取りになる。

「人生はこんなもの」「だって、しょうがない」「だって、社会が悪い。マンパワーを減らす会社が悪い…私の人生が面白くないのはそんな周りのせい…」「だって、だって、しょうがない…」いつのまにか言い訳ばかりの人生になっている。^_^あなおそろしや。

無難に生きたい。それゆえにする保身。でも、一見無難に生きながらえそうでいて、本質的には相手も自分も地味にじわじわころしている。

今、ここで、あたらしく。

保険で型どられた既存の概念に、目の前いのちを当てはめることなく、今、新しく出会い、真新しく接していきたい。

そこから、可能性、いのちは広がる。

そこにしか、創造はない。生き切らないときっと生きれない。


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