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「できない」という言葉を考える

こんにちは。
社会福祉士、精神保健福祉士のぽこです。


◇雑談


最近、露骨に疲労が溜まっています。
家にいても仕事のことばかり考えていたり
夢の中でも働いていたりと
脳のリソースのほとんどを”仕事”に費やしています。
この状態で働くことが悪いわけではありませんが
「持続可能ではないな」と思います。
自分なりのライフペースを改めて探し直す必要がありそうです。

◇勝手に判断しない

さて、今日はそんな私の職場である、障害者支援の現場から感じたこと。
「事実を勝手に判断する」のは良くないな、というお話です。

・○○できなくなって


私は、救護施設という、生活保護法による措置施設で働いています。
そのため、そこに入所されている方は全員生活保護を受給している人たちです。
そのご利用者の生育歴を見てみると、こんな文字が並びます。
「中学から学校に行けなくなり・・・」
「○歳から仕事に行けなくなり・・・」
「家族とコミュニケーションが取れなくなり・・・」
こんなふうに、「○○できなくなった」という言葉が並んでいる人がほとんどです。

・「できない」は事実ではない

この分野で働いていると、学校に行けなくなったとか、仕事に行けなくなったとか、できなくなったという表現をよく耳にします。
しかし私は「できなくなった」と判断するには早いのでは?と思うのです。
学校に行けなくなってしまった子ではなく、行かないという選択をした子だということです。
今までできていたことができなくなったとき、私たちは「できなくなっちゃった」という感覚を持ちます。
しかし実際には、ただそれをやめただけなのかもしれないのです。

今まで頑張ってやっていたけれど、本当は苦しかった。
だから、やめた。

本人としては、そういった意味合いのある、ある意味での”選択”なのかもしれません。
その選択に対して、私たち周りが「できるはずなのに、できなくなってしまった」と決めつけてしまう。
それは、とても勝手な判断だな、と思うのです。

・「できる」「できない」という言葉

事実として、ある行為を遂行できるかどうかという判断を「できる」「できない」で表現するのは、悪いことではありません。
しかし、その「できる」「できない」の基準は、あくまでも私たち個人や周辺の環境が定めている枠組みだと忘れないようにしたいものです。
結局のところ、○○という行為の遂行ができない人という評価を受けている人は、「私たちから見て○○できない人」という意味合いなのです。
みんな学校に行っていなければ、「学校に行けなくなってしまった子」なんて枠組みはなくなります。
みんなが学校に行っていて、その基準に沿っていないから「行けなくなってしまった子」という判断をされてしまうのです。
その言葉を使って人を判断するときには、そもそもその基準は絶対ではないということを念頭に置いておきましょう。

では、今日も心地よい1日を過ごしましょう💐
また記事を読みにきてくださると嬉しいです💐

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