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母の日過ぎてから書く母のこと。

こんにちは。
母の日に記事をアップする予定で書いてたんですが、長くなり過ぎて日付も変わり、ボツにしました(笑)
そして短く振り返りこっそりアップです。

これを読んだら、家族の延命についての考えの一助になる、かも。
を目指しています。

私の母は、今年2月に旅立ちました。
肺がんでした。認知症もありました。

母の生活は認知症まっしぐら!なものでした。
独居、1日中家に篭りきりでテレビ三昧。
気の許せる友人ほぼなし。

認知症になって、幻視や妄想もありました。
私はどこまでが認知症なのか老化なのか、を考え過ぎてて対応が遅くなってしまってました。

なんやかやと大変でしたが、最終的にグループホームに入ってもらい、母にとって新しい生活が始まりました。
そこでは台所の手伝いなどしていたようで、職員さんや他の利用者さんとの関係も良好でした。

母は病院嫌いでほとんどかかったことがなかったのですが、施設では定期検診があり、そこで肺がんが見つかりました。すでにかなりの末期でした。

それでもそこから1年以上は施設で普通に暮らすことができていました。
がん治療はガイドラインから外れているため、特に何もしませんでした。

一昨年は誤嚥性肺炎で2週間近く入院しました。
認知症があるので点滴は抜いてしまうし、ベッドに横になっていられないので車椅子に乗って過ごす時間が多かったです。
認知症の人だと、治療に協力してもらうことは本当に難しいのです。

去年後半から食事量も徐々に落ち、酸素療法をするようになりました。
認知症があるので、酸素チューブはしょっちゅう外していましたが、私は施設の人には「すぐ付け直さなくても大丈夫ですから」と伝えてました。

今年になり施設で見るのも限界ということになり、緩和ケアの病院へ移るという矢先にかなり具合が悪くなり、緩和ケア病棟に夕方緊急入院しましたが、その翌朝息を引き取りました。

緩和ケア病棟だったので、点滴や積極的治療はせず、苦痛だけを取り去る対応をしていただきました。

苦痛はどのくらい取り去られてたのか…私にはわかりません。
実際呼吸苦というのは、対応が難しいのです。
でも、きっと少しでも苦痛は取り除かれてたと思っています。
もっと早く、緩和ケア病棟に入れてあげたらよかった、その後悔はこれからも持ち続けていくことでしょう。

私の勤め先、に限らず病院というところは、食べられなかったり脱水だったり、の必要時は点滴をします。
点滴を続けていくと、体のあちこちがむくみます。
皮膚が半透明になっていって、場合によっては皮膚から水が漏れ出てしまうこともあります。

血管が細過ぎたり浮かばなかったりする人であっても、何度も刺し直します。
もはや治療というよりは、老衰を見守る状態であっても、です。

人生の最期が、病院のベッドで寝たきりで、苦痛を伴った水分補給でただ生きている=死んでいない、という状態の人たちをたくさん見てきました。
看護師の判断で点滴はやめられません。
あまりにも点滴の針が入らない人だと、1日点滴を休んでもいいかどうか、医師に判断を仰ぐことはできますが。

そして、人に死が訪れます。
腕、脚がむくみすぎて変形し、点滴による皮下出血で紫色の模様があちこちに広がってます。

人が亡くなるという最期の時が、こんな状態でいいのかな…
と私はいつも感じながら、亡くなった人の体を拭き、浴衣を着せて退院を見送ってます。
亡くなった患者さんの姿を見て、患者さんの家族は、どう感じているのでしょうか。

私の母は、点滴もせず治療もせず、
美しく亡くなりました。
美しく、というのは、見た目だけではありません。
自然に寿命を迎えて旅立った、ということでもあります。

点滴をしてでも、1日でも長く生きていて欲しかった!
という人たちのその気持ち、感情を否定する気はありません。

ただただ、この世に生きていてほしい。

その気持ちは、私も持っているものですから。

でも点滴で命を引き延ばしても、面会もできない。
対話もできない。お世話もできない。

生きるって、なんだ?と常々考えてる私です。

人間の、永遠の課題かもしれませんね。

結局長文になってしまった〜。
それではまた。

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