自分基準の正義感の危うさ
休職中、急にできた終わりを決めない毎日の自由時間。
何にも考えないでふわふわと過ごしていたけど、こういう時人は、自分のやりたくないことはやらないわけで、どれだけ時間を費やしても苦にならないことに自然と時間を費やすらしい。
私は何をしていたかというと。
刑事もののドラマをかたっぱしから見る
大豆田とわ子と3人の元夫をエンドレスリピートで見る
Podcastやラジオを聞き続ける
社労士の受験勉強をする
近所のカフェ3軒に順番に通いたまに新規開拓をする
刑事ドラマの類は元々好きというか、あまり何にも考えずにチャンネルを回していた。
大学の専攻は刑事政策で、法律には興味は持てなかったけど、犯罪者心理とか少年犯罪者の更生について考えていた。
小栗旬さん主演の「BORDER」が特に印象的だった。(あらすじはぜひWikipediaから確認いただければ)
他の刑事もの、というか犯罪絡みのもの(最近話題になったものだとエルピスなんかの類も含む)も、だいたい大枠は変わらないんだけど。
私は「〜べき」と考えがちなタイプで(考え方のクセなのでゆるめたいと思ってはいる)、それは一生懸命になればなるほど、正しさを追い求めることになる。
一般人OLが追い求められる正しさなんて小さな範囲のことで、会社での評価とか判断とかそんなことなんだけど。
でもその自分の信じる正しさを追い求めることは、時として自分が正しくない悪い存在たらしめる。
それはつまり、誰かを傷つけるという意味で。
5年ほど前、しゃかりきに働いていた私は、1人の先輩を潰しかけた。というより、ギリギリを保っていただけで、本当は潰してしまっていたかもしれない。
自分なりの信念を持って、信頼する上司の元で、最善の結果を出そうと必死だった。
ハイパーアクティブの要素を存分に発揮した私は今考えても常に120%のアクセルを踏んで進もうとしていた。それでも足りなくてもっと踏み込みたいジレンマを抱えていたくらい。
その中で、異動初年度で仕事の仕方が全く異なる先輩は、私にとっては足手纏いでしかなかった。
私が信じていた正しさは、とにかく最善の結果を出すこと。
それだけを考えたら、先輩は邪魔でしかなかったから、エビデンスを揃えて先輩をそのプロジェクトのリーダーから下すよう上司に迫った。
結果、上司の判断でリーダーはかわりに私がやることになり、その仕事の結果は当時のリソースからしたらそこそこ満足できるかたちになった。
当時はその先輩ができないのが悪いのであって、できない人を下ろすことは別に悪いことだとはそんなに思っていなかった。
でも組織にハレーションは起きただろうし、先輩のメンタルに少なからず影響はしただろうし、先輩のその後のキャリアの積み方にも。
遡れば、高校時代に所属していた吹奏楽部での楽器別のコンクールではそこまで振り切れなかった。
結果を追求するなら、人選も選曲も異なる決断をしていただろう。
でも当時の私はそこまでできなかった。
できなかったから、結果を出すこともはなから諦めて、もちろん結果も出なかった。
無意識に、繰り返したくなかったのもあった気がする。
最善の策が取れる選択肢があるのに、忖度で選ばないことで結果が出ないなんて、なんてばかげているだろう。
忖度したところで自分の中にしこりが残れば、忖度した相手とその後もつながり続けることなんてないのに。
正しさを追い求めることは必ずしもよいことではないし、全てを知る(なんてことがありえたらの話だが)ことが必ずしも良いことではない。
むしろそのこわさを知ったからこそ、できる対応があってそれが大人ってことなのかもしれない。
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