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宗教二世がフランスで考えた中上健次と社会物語学のこと : 蓮實重彦のいう物語とは何か

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1.3.2. 蓮實重彦のいう物語とは何か

 前節では、藤井貞和の議論を手引に「物語」という語についての意味論的な考察をすることで、中上健次の物語論をこれから読んでゆくための補助線を引いた。そこでさしあたり立てた仮説は、中上の物語概念の元ネタのひとつとして折口信夫のいう物語があり、それが単なるモノともコトともつかないもの、ある種の不特定性としての力=マナ=霊がモノやコトとして現働化するようなシステムであるというものだった。中上はそれを「物語という物がまさに物を語る事によって出来るシステム」と表現した。
 こうした発想それ自体は「物語」という日本語、ひいては「モノ」や「カタリ」という日本語が持つ意味の豊かさに負うところがある。その点、中上の物語論は、まさに日本語ならではの物語に関する議論の流れを汲むものであると言えるだろう。物語のモノとしての側面に着目すれば、いわゆる国文学の文脈でなされてきたジャンルとしての物語のテキスト読解の伝統に連なるだろうし、物語のコトとしての側面、つまりカタリの側面に目をむければ、たとえば「語り物」のような芸能の営みも視野に入ってくる。このような日本語文化圏の伝統を抜きにして中上の物語論を理解することはできない。
 その一方で、中上が物語論を語った1970-80年代の時代背景も同時に踏まえておかなければならない。というのも、中上の議論はニューアカデミズムという当時の知的流行のなかで持てはやされたフランス思想の影響を強く受けてもいるからだ。本節では、特にフランス帰りの蓮實重彦が中上と時を同じくして展開した物語論を概観することで、中上の議論がそもそも同時代のどのような文脈においてなされたものなのかを確認しておくことにしよう。
 中上が同時代のフランス思想から刺激を受けるなかで作りあげることができたのは、日仏の議論を奇妙に織りまぜた物語論だった。とはいえ、ジェラール・ジュネットが試みたナラトロジーのような記号論的なテキスト分析のアプローチからは根本的にずれている。そもそもジュネットの議論が「ナラトロジー」という日本語として知られるようになったのは、いわゆる記号論というものが持てはやされはじめた1980年代の半ばのことで、たとえば岩波書店の『思想』の1985年9月号で「ナラトロジー」という語が用いられているのが確認できる。しかし、このときには中上はすでに晩年にさしかかっていたといっても過言ではなく、後に詳しく見てゆくように中上の物語論の形もすでにできあがっていた。
 中上はむしろ、クロード・レヴィ=ストロースやミシェル・フーコー、ジャック・デリダといった思想家たちによる1960-70年代の仕事からの影響を受けていた。レヴィ=ストロースの文化人類学的な議論については、山口昌男や中村雄二郎といった大学人から学びとったことが、晩年の中上の議論にある種の神話学的、説話論的な色彩を与えることになる。しかし、中上の物語概念の核心にあり、なおかつはじめから一貫して問われてきたものは、むしろ柄谷行人や蓮實重彦を通じて学んだフーコーやデリダの議論と重なりあうところがある。
 中上が物語という概念について意識的に語りはじめたのは『岬』によって芥川賞を受賞した1976年ごろからのことである。蓮實は、まさにそれと同じ時期にフーコーの議論を下敷きにしながら物語について語りはじめていた。蓮實とフーコーとが近しい間柄にあったことは、蓮實が自身とフーコーとの対談「権力と知」を『海』の1977年12月号に発表したり、翌年に同誌の7月号に掲載された吉本隆明とフーコーとの対談「世界認識の方法」での通訳を務めたことからも伺われるが、ちょうどそのような時期に蓮實は中上の小説について自身の物語論の枠組みで語りはじめてもいる。たとえば『日本読書新聞』の1977年7月11日号に中上の小説『枯木灘』への書評を寄せ、同年8月には『現代思想』に発表された論考「物語としての法」のなかで議論をさらに掘り下げている。翌年の1978年には10月の『海』誌上で中上のルポルタージュ『紀州』についての書評を書いているし、同年12月に出版された中上のエッセイ集『鳥のように獣のように』には「物語と文学」と題した解説を寄せてもいる。
 当時の蓮實にとって物語はきわめて重要な概念だった。それがどういうものだったのかをこれから概観してゆくことにしよう。1979年の『季刊・現代批評』誌上に発表された「物語=書物=文学」というエッセイのなかで、蓮實は次のように述べている。

人間が物語の話者たりうるという確信は、それじたいが一つの物語にほかならず、その物語は、物語の他動詞的な圧政を蒙りつつある人間によって、はじめて語られうる物語にすぎない。そしてその物語を語る話者は、人間ではなく、物語そのものなのだ。この物語にとっては、人間とは語る主体ではなく、語られる客体にすぎず、物語の他動詞的な圧政をもろにうけとめる目的語でしかない。人間は、この物語によって主題として選ばれ、説話論的に分節化され、しかるべき順序に従って配列される客体であり、そのとき物語的な細部にほかならぬ人間が演じたてる説話的機能が、物語の話者は人間だという物語を語ることなのだ。(蓮實 1995)

 このような蓮實の見立ては、前節で扱った二つのコミュニケーションモデルの枠組みを通して図式的に理解することができる。蓮實がここで言いたいのはようするに、人間という話者が物語を語るとする人格的なコミュニケーションモデルはそれ自体が物語であり、非人格的な物語こそが人間を騙っているのではないか、ということである。このような発想自体はマナや言霊をめぐる折口信夫の1920-30年代の議論にもすでに見られるものだったけれど、ここではそれがフランスからやってきたポスト・モダニズムの装いをまとって再演されている。
 蓮實は同様の主張を文芸誌『海』の1982年2月号に寄稿した「物語批判序説」のなかでも展開している。そちらのほうもあわせて確認しておこう。蓮實はたとえば次のように言う。

説話論的な磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかはないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっとも意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。まさしくとりあえずにすぎないものが演じうる特権的な歴史性。自我でも、主体でも、またご希望とあれば「私」でもかまうまいが、その錯覚の大がかりな共有が、 説話論的な磁場の自己塑性と同時的でしかありえなかったという歴史性。それを、知と物語との相互保証という同時代的な現象を介して明らかにしてみなければならない。(蓮實 1982)

 蓮實はこのような考え方を1960年代のフランスの思想家たちが展開した広い意味での構造主義の議論から学びとったのだろう。もともと文学畑の出だった蓮實は、特に「作者」や「語り手」と呼ばれる者による「行為」とされてきた「物語」に関心を寄せたが、それは蓮實よりも一世代前の批評家にあたるロラン・バルトのような者たちがすでに論じてきたことだった。たとえば、バルトは「作者の死」という1967年のエッセイのなかで、次のように述べている。

作者というものが我々の社会の生みだした近代的な登場人物であるのは間違いない。中世の終わりから、イギリス経験論、フランスの合理主義、個人の信仰を謳う宗教改革を経て、社会は個人というものの威信を見出した。 (Barthes 1967)

 この議論を受けて、ミシェル・フーコーも作者というものについての関心を寄せている。たとえば「作者とは何か」(1969)という講演の中では次のように述べている。

作者は作品を無限の意味で満たすよう起源などではない。作者が作品に先行するわけではないのだ。作者とは我々の文化においてテキストの流通を制限したり排除したり選別したりするような機能のことである。[…]その真の歴史的な機能に関して倒錯した理解がされているという点で、作者は観念の産物である。(Foucault 1969)

 作者というものにかぎらず、長らく世界やコミュニケーションの起源として自明視されてきた不可分の単位としての「主体」に関しても、システムによって構成された観念の産物であるとする風潮が当時のフランスにはあった。そのような意味での構造主義の議論は、1970年代ごろから次々と日本に輸入され、ポスト・モダニズムという知的流行を形作ってゆくことになる。そのなかでの最も重要な仕事のひとつに1974年に翻訳出版されたフーコーの『言葉と物』(Les Mots et les Choses, 1966)が挙げられるけれど、ここではルイ・アルチュセールの論文「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」(Idéologie et appareils idéologiques d’État, 1970)が『思想』1972年7月号と8月号上で和訳されていることにも触れておきたい。アルチュセールは次のように述べている。

イデオロギーは「呼びかけ」というものによって人々を徴集したり主体へと転換するような作用ないし機能を持っている。[…]個人はイデオロギーにすでに呼びかけられているからこその主体としてある。(Althusser, 1970)

 主体はまず、呼びかけられる客体としてある。そして、主体に呼びかける働きのことをアルチュセールはイデオロギーと名付けた。裏を返していえば、イデオロギーとしてそれまで知られてきたものを「働き」ないし「機能」という観点から読みかえた。蓮實の物語概念もまさにこのようなレトリックに裏付けられていると考えられるだろう。
 ちなみに、日本のポスト・モダニズムにおいては「物語」という言葉がさらに別の文脈でも用いられている。ジャン=フランソワ・リオタールの『La Condition postmoderne』が刊行されたのは1979年になるけれど、その日本語訳である『ポスト・モダンの条件』の出版は1986年のことである。日本ではそれをきっかけにして「La fin des grands récits」の訳である「大きな物語の終焉」という言葉が知られるようになった。これはもともと、イギリス経験論やフランスの合理主義、マルクス主義のような思考の枠組みとしてのイデオロギーを意味するものとして使われていた。
 中上健次自身もすくなくとも1985年の時点で評論家の四方田犬彦からリオタールの議論について聞かされており、それ以前にも「大きな物語」という語を用いたことがあった。とはいえ、それが人口に膾炙するまでの間にそれなりの紆余曲折があったようだ。新井克弥(2009)によれば、まず、ジャン・ボードリヤールの消費記号論からの着想も得つつ「大きな物語」という言い方を世に広く知らしめたのが大塚英志(1989)の『物語消費論』である。その後、厳密な意味でリオタールのいう物語を本格的な形で導入したのが大澤真幸の『虚構の時代の果て』(1996)で、さらに大塚や大澤のいう「物語」を接合したのが東浩紀(2001)の『動物化するポスト・モダン』であるという。
 このようにかならずしも一枚岩であるとはいえないフランス由来の物語論の文脈に中上と蓮實の物語論も置かれている。二人は1979年1月に「制度としての物語」というテーマではじめて対談をすることになるが、そこで蓮實は次のように述べている。

ぼくは、かねがね二十世紀が対処すべき最大の問題は物語と法ってことだと思っている。今日の文化は法と物語とをそれぞれ別個の領域で分析記述することには成功したが、法と物語とが同じ一つのものとして機能しはじめるとたちまち分析も記述もできなくなってしまう。つまり、法は物語だし、物語は法だと口にすると、とたんにそれが物語としての法に組みこまれて動きがとれなくなる。そのことに苛立つ人がいないのは何とも不思議だと思っていたら 、そこに中上健次がいたというわけです。[…]世の中には、物語に抗っている文章と抗っていない文章っていうものがあると思う。一方に、物語のなかにどんどん取り込まれていくということを意識しながら、そのことを快く受けとめてる文章があると思うんですよね 。初期の中上さんなんか、そうじゃないか。[…]物語に抗ってはいないけど、この無類の甘美さは、物語の恐ろしさを充分に意識した作家にはじめて可能なものです。(Œ20)

 蓮實がここでいう「法」や「物語」が具体的に何を意味するのかは、よくわからない。しいていえば、フェルディナン・ド・ソシュールが考えたような「言語 langue」と「発話 parole」との対立、ある種の形式と内容の対立を語っているようにも思われるけれど、確かなことは(おそらく蓮實本人にも)よくわからないし、わかる必要もない。しかし「物語としての法」に関しては、まさに同名の題を冠した1977年のエッセイのなかで、ちょうど同年に発表されていた中上健次の『枯木灘』について蓮實が語っていることが理解の手がかりを与えてくれる。

「物語」は勝利する。[…]「物語」はきまって勝利するし、また勝利することがその唯一の機能にほかならない。「物語」とは、王国の存続に必要不可欠な「法」にほかならない。しかし、王も国民も、「物語」としての「法」の支配には徹底して無力であり、たえず敗北という消極的なかたちでしか加担することしかできない。/たとえば中上健次の『枯木灘』とは、王の「物語」を模倣する王位継承者の反復譚として、説話論的な欲望に対する王と、王位継承者と、国民との決定的な敗北の過程を聡明に描きあげた「物語」の「物語」にほかならない。[…]「物語」を語るのは「物語」自身である。そして人間たちは、その「物語」の命ずるままに「物語」を模倣するのだ。(蓮實 1982)

 中上健次の『枯木灘』は父殺しをテーマにした長編小説である。主人公の秋幸は自身を父殺しへと駆り立てるような物語の呼びかけを感じる。父を殺すことで王になるというオイディプスのような自身の定めをいわば肌で感じとってしまう。秋幸はそんな物語のささやきから逃れようとして結果的にはそれに染まってしまい、物語の前にひれ伏すことになる。『枯木灘』はまさにそのような敗北によって物語という定め=法の勝利を苦々しくも高らかに謳う物語である、と蓮實は考えたのだった。
 蓮實は「物語としての法」への苛立ちを募らせることで、ポスト・モダンな所作をしてみせる。「実存は本質に先立つ」といったことを唱えたジャン=ポール・サルトルのような論者と違い、物語という主体構成の働きから自由であるような主体などはないと考えてみる。その上で、西洋の「小説」とは異なる日本の「物語」の伝統を挙げ、中上にまさに日本的な物語の作家としての可能性を見出す。蓮實は1979年の対談のなかで次のように語っている。

「物語」ということばは、どうせ七世紀か八世紀ぐらいからあったはずのものでしょう。ところがフランスの場合、小説家にとって「小説」なんてことばはつい最近生れたものにすぎない。語源は中世に遡るにしても、今日的な意味の定着はたかだか数世紀前のものです。だから小説と物語との関係を、ごく曖昧にしたまま中途半端にやるしかなかった。ところが、たとえば中上さんが『化粧』でやったように、ある物語の中に身を置こうとするなら、十数世紀を一挙に自分のものにすることができる。何しろこっちは、明治まで一貫して「物語」でやってきたんですから。十九世紀に小説という奇妙なものに目覚めちまった連中に比べれば、もう蓄積が違うという感じがするんですよね。だから、われわれ日本人なんかのほうが、その点では、うまく体系化しうるかどうかはともかくとして、物語の毒であり魅力でもある部分に、感性が深くつき進んでいくんじゃないかっていう気がするんです。(Œ20)

 蓮實のここでの主張それ自体は、どうでもよい。それよりもむしろ「物語」という日本語のキーワードが使われることによって可能になっている類比的な発想があるということが重要である。そもそも蓮實が自身の物語論のベースにしていたのは、1960-70年代のフランスでの主体概念をめぐるどちらかといえば社会学的な議論だった。それがここでは物語という語の多義性によって、さらには中上の作品を通して、文学の文脈に接ぎ木されている。つまり「社会」を構成する不可分の単位として考えられてきた「個」をめぐる問いが「物語」とその構成要素である「登場人物」の関係への問いと重ねられている。そして、アルチュセールであればイデオロギーと呼ぶようなシステムへの抵抗の可能性に似たなにかが小説家の振るまいのなかに見出されることになる。
 物語はこのとき、ある種の力、働き、作用として観念されている。それでいながら、語るコトとしての小説家の創作行為としての物語も、語られたモノとしての物語も含みこんでいる。これから詳しく見てゆくように、まさにこのような多元的な発想こそが中上の物語論を一貫して特徴づけるものでもあった。
 中上は蓮實のこうした議論に強く触発されると同時に、強い危機感を抱いた。1979年の対談の折には『枯木灘』についての蓮實の論考「物語としての法」を読んだときに「ギョッとした、自分がヤバイなという感じがあった」と素直に打ち明け、「それで今日は、背広もきてきたしネクタイもしめてきた」とかしこまったところを見せてもいる。そして、その後しばらくの間は、蓮實にならって「物語=法」という言い方をするようになる。
 ところが、そんな中上も1980年代になると蓮實の物語論に対して徐々に敵対心を募らせてゆくようになる。たとえば「現代小説の方法」という1984年の講演のなかでは次のように述べている。

今振りまかれている反物語論ってあるでしょう 。例えば絓秀実とか渡部直己とか、あるいは蓮實さんなんかの世界だと思ってもいいんだけど、つまりそれは、ある意味で反物語を物語的に信じ過ぎてるんですよね。反物語に物語を言うことによって、いわばロマン主義に陥っているとしか言いようがない。本当は反物語もとっくに物語に組み込んじゃっている、そんな怖いものなんです。(Œ16)

 この時点ではまだそれほどの悪意は感じられないし、この批判が当を得ているようにも思われない。というのも、物語への抵抗主体もまた物語の働きの結果として生みだされたものにすぎない、という主張こそ蓮實自身が一貫して述べてきたことであるからだ。
 蓮實への敵意が頂点に達するのは、中上の晩年にあたる1980年代の後半のことである。正確には、蓮實(2008)が中上の死後にめずらしく感傷的な口ぶりで振りかえっているように、1986年12月に柄谷行人や浅田彰を交えて渡仏した折に二人は決定的な仲違いをすることになったようだ。ジャック・デリダとの討論も行われたパリでのシンポジウムから一週間後の12月20日に二人きりで成田への帰路に着いたときには、タクシーのなかでろくに言葉さえ交わさなくなっていたらしい。
 根に持つ性格だったのか、翌年の1987年9月に吉本隆明の招きによって中上が行った講演「超物語論」においては、深夜の酒の酔いも手伝ってか、中上は次のような言い方で蓮實への敵意を剥きだしにしている。

蓮實重彦の『物語批判序説』に使われているような、法だとか制度だとか、つまりありきたりのものを物語という。あれは蓮見重彦の『物語批判序説』に概当するもんだと思いますよ。それを物語といってんだけど、そんなものは物語といいたくない。それは低レベルの、つまり、蓮見重彦という俗物の考える物語であって、僕の考える物語じゃない。 (吉本 1988)

 では、中上のいう物語はどのようなものなのか、ということについては、後に詳しく検討していくことになる。この時点で言えるのは、中上はニューアカデミズムの流行のただなかで同時代の日仏の議論の影響を受けつつも、物語という日本語の豊かさや自身の社会的な立場に導かれる形で、彼なりの奇妙な物語論を展開することができた、ということである。
 中上は少なくも以下の三つの点で蓮實や柄谷のような立場の論者とは違っていた。第一に、中上はいわゆる「知識人」ではなく、小説家だった。そのため、実際に手を動かしながら小説における物語のメカニズムについてみずから学びとることのできるものがあった。第二に、中上はいわゆる「被差別部落」の出身だった。そのため、中上は差別や差違という概念を議論の核にすえることになった。第三に、中上はフランス語や英語を使いこなすができなかった。そのため、自身が日本語話者であること、日本語文学という枠組みのなかで小説を書いているとことへの非常に強いこだわりがあった。
 これらの事情も相まって、とりわけ議論の「かけ金」の次元において中上の物語論は同時代に類を見ないものになっている。ここでいうかけ金とは、いったい何のために何がどのように語られているのか、ということである。蓮實の議論のように、物語というものがある種の構造主義的な手つきで語られていることは間違いない。しかし、その物語とは何なのか。そもそも、何のための議論なのか。中上の議論をごく素朴に追っているだけでは、この点が見えてこない。いたずらに奇妙なだけの印象を受けるだけで終わってしまうかもしれない。
 そこで、読解の手がかりとなるような補助線を最後にもう一本引いておきたい。中上は彼が物語や言葉と呼ぶものの力をひどく畏れていた。その点で中上健次の物語論には「社会物語学的」とでも呼べるようなかけ金が置かれていると言うことができる。この「社会物語学」とは何かということを明らかにするために、次節では、社会学者のアーサー・フランクの議論を概観したい。

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