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フランスで中上健次について考えたこと

こちらに引っ越しました。
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序章 問題の所在

1. 中上健次のいう物語って何なんだろう

1. 1. 中上と僕自身のこと、フランスのこと

 フランスで中上健次について研究しようと思っているのです、とある日本の文学研究者の方に打ち明けたところ、どうしてわざわざ海外でそんな古風なことをするのか、と訝しまれたことがあった。この日本でさえ、よほどの硬派でなければ中上健次なんてやらないのに。1980年代にはあんなに持てはやされた作家だったけれど、昭和から平成への時代の変わり目に急逝してからはあまり顧みられなくなってしまった。まあ、それを言ったら、いわゆる純文学というか、文壇そのものが、いまではオワコンっていうの? すっかり地方都市のシャッター街のようになってしまったけどね。それにしても、なぜいまさらになって中上健次を? よりによって、国外で。そう怪しまれ、なぜだろう、僕自身、言葉に困ってしまった。
 いまになって振り返れば、そのときの僕はすくなくとも二つのことに対して、ほとんど病的といっていいほどにわだかまる思いを抱えこんでいたのかもしれない。
 一つ目は、自分自身の素性に関することだった。2021年に起きた安倍元首相銃撃事件によって統一教会という教団が世間の注目を集めたけれど、僕は教団がなければこの世に生を受けていなかった。というのも、1978年に教団が埼玉県上川村にある工場に1610組もの信徒を集めて夫婦の縁組をしたのだけど、そうして「真の家庭」を築くと誓わされた男女のもとに神の清らかな血を引く「神の子」として生まれたのが僕だった。2021年の事件をきっかけに宗教二世をめぐる問題が広く認知されてからは、自分の素性を隠すことをやめたけれど、それまではずっと自分が神の子であることをだれにも打ち明けられずにいた。組織的なマインドコントロールの果てに生まれきてしまった自分のことが化け物のように思えてならなかった。
 二つ目は、日本語や日本国に関することだった。あるときふと、どうして自分は日本語を話しているんだろう、と思った。一度そういう思いが過ると、それが呼び水となって様々な疑問が湧きはじめる。日本語を話しているこの自分は何なんだろうか。自分は日本人なんだろうか。自分の「母語」であるはずの日本語がふと、借りものめいて見えた。なぜなだろう。僕は神の子でもあったから、本来は統一教会のいう「天一国トンイルグク」との国民もでもあり、天一国の「国語クゴ」である朝鮮語を話せるのでなければならなかった。それを馬鹿げた妄想として一蹴するのは簡単だけれど、それをいったら日本語や日本国だって似たような妄想に過ぎない気がして、日本語を話している自分に対して奇妙な居心地の悪さを覚えてしまった。
 そんな二つのわだかまりを抱えていた当時の僕の目を引いた作家のひとりが、中上健次だった。中上はいわゆる被差別部落の生まれで、18歳のころに上京してからも故郷への屈折した思いを抱えていたようだけれど、31歳のころからある種のライフワークのように部落差別の問題に取りくみはじめるようになる。それがどれほど勇気の要るものだったのか僕にはわからない。ただ一つ言えるのは、中上にとって言葉に真摯に向きあうことはそのまま自身の素性に真向きあうということもであったということだ。それで1977年に紀伊半島に点在する被差別部落をめぐる取材旅行をして『紀州』というルポルタージュ集を出すのだけど、それを読んだときに受けた衝撃を僕はいまも忘れずにいる。
 言葉に向きあうということは、中上にとっては、日本語に向きあうということだった。『紀州』においても、部落差別の問題を扱うなかで日本語への異様な執着を見せている。日本語への敵意というか愛憎半ばする感情を中上ほどあらわにしていた作家を僕はほかに知らないのだけど、それはある種のコンプレックスの裏返しだったのだろうという気がする。たとえばドイツ語での創作もする多和田葉子のように複数の言語を操れるわけでもない。中上にはアテネ・フランセという語学学校で仏語を学ぼうとしたり、アメリカで英語の小説を書こうとしたことがあったのだけれど、ことごとく失敗して、結局は日本語という元の鞘に収まってしまう。まさにそれゆえなのか、自分とは切っても切りはなせない日本語に不快感を表明しつづけた作家だった。
 このような中上の問題意識というかコンプレックスが当時の僕自身の抱えていたわだかまりと重なりあう部分があったのだろう。僕は教団の操り人形のようになった家族のしがらみから解放されたい気持ちもあり、さまざまな紆余曲折の末にフランスで暮らすことになったのだけれど、ちょうどそのときに持ち出したのが集英社版の『中上健次全集』のうちの数巻で、特にエッセイや対談、講演などをまとめたものだった。それを折に触れて読むうちにいつか中上について語ってみたいと思うようになった。
 そして、奇遇なことにというほかないのだけど、『中上健次全集』を読むうちにわかってきたのは、僕がたまたまこの問題に取りくむことになったフランスの地と中上健次にはそれなりの因縁があるということだった。それはフランス現代思想というものがいわゆるニューアカデミズムの界隈で持てはやされた80年代という時代柄とも関係がある。特に中上は柄谷行人や蓮實重彦、山口昌男、浅田彰、四方田犬彦といった知識人との交流を通して、レヴィ・ストロースやミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ロラン・バルトといった20世紀のフランスの思想家たちに学び、大いに触発されていた。
 また、これもいまになって振りかえればということになるのだけど、フランスの側から見てみると、1980年代はいわゆる日本文学というものへの興味がもっとも強かった時代だったのかもしれない。前述のフランスの知識人もしきりに日本に招聘されるということがあり、日仏の知的交流が主に人文学の分野で最も盛んだった時期とも重なるが、中上健次は1985年にファイヤール社のピエール・オブリに見出されて以降たびたびフランスを訪れ、ジャック・デリダとの対談をしたり、コレージュ・ド・フランスでの講演をするなどしている。フランスにおける日本文学の研究者の間でも中上健次は1980年代を代表する作家だと見なされているが(Gottlieb 1995, Struve 2018)、当時の中上本人としては、竹取物語の時代から続く日本文学の歴史を背負う作家だといういくぶん誇大な自負さえあった。1985年3月の『Le magazine littéraire』誌上でのインタビュー記事では、他の日本の同時代の作家に対してどのように自分を位置づけるのかという問いに対して、次のように答えている。

僕は最も伝統的な日本の作家と見なされていて、来日したデリダが西洋の影響からは無縁な作家に会いたいという所望をしたときも、僕の名が挙げられることになったわけです。(拙訳)

Nakagami 1985

 この記事が「中上にとっての伝統(La Tradition selon Nakagami)」と題されていることからもわかるように、中上は日本の伝統というものにこだわり、自分をその本流の継承者として売り出そうとしていたようだ。もうすこし別の言い方をすれば、自分が日本語作家であるということにこだわった。現代のフランスにおいても、日本語作家というものは往々にして日本という文脈のなかで語られることが多い。ノーベル賞を取った川端康成にしても大江健三郎にしてもそうである。日本というレッテルからある程度自由な形で読まれているのは、村上春樹や小川洋子といったごく一部の作家である。
 80年代当時のフランスで暮らしていた宮林寛(1991)や大浦康介(1992)といった研究者は、現地ではどうしても日本という枠組みの内部で中上が読まれてしまうということに対して憤りを表明していた。特に部落の生まれという出自がいたずらな脚光を浴びて一面的な受けとられ方をしてしまうことに警鐘をならしていた。たとえば、Le Mondeの東京支局長だったフィリップ・ポンズは「中上は現代日本文学のなかで別格の作家である。文体の強度や物語の密度においてもそう言えるが[…]作家自身の生においてもそう言える。かつて賤民が集住していたということでいまなお差別を受ける世界の荒波のなかに中上は生まれたのだ(拙訳)」と1989年3月2日の記事で述べている。日本においては中上の作品が部落というフィルターを通して読まれるのはむしろ稀なことだったのだけれど、フランスにおいては新奇なものへのエキゾティスムが発揮されてしまい、それがイメージどまりにすぎない日本という観念を呼びこみ、読みを偏向させてしまう。宮林寛や大浦康介はそういう温度差を感じとったのだろう。
 ただ、その上で僕が思うのは、日本という枠組みのなかで読まれることは中上本人が望んでいたことでもあったのではないか、ということである。中上は自身があくまでも日本語作家であることにこだわり、その意味を深く掘りさげようとした作家だった。中上が「伝統」というとき、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫といった作家がこれまでにいて、自身こそがその後継者である、ということを強く意識している。実際「Nakagami, romancier des ruelles(路地の作家、中上)」というドキュメンタリー番組が1989年のフランスで放映されたときには「三島由紀夫以降の日本語文学の世界のなかで最も際立った存在」として自身を紹介させている。
 おそらくこのときにはもうノーベル賞を取るつもりでいたのかもしれない。少なくとも1991年には次にノーベル賞の御鉢が回ってくることになる日本語作家として中上が有力視されているという噂が流れていたことは、その年に行われた新宮市の市長との対談(Œ12)でも伺い知れる。中上自身、そこで「ノーベル賞に値するような、いい作品を書きたい」と述べている。結局のところ、中上の死から二年後の1994年に大江健三郎にノーベル文学賞が与えられることになるのだけれど。俳人の夏石番矢は、もし中上が生きながらえていたのなら中上が受賞していただろうという。とはいえ、生前に日本語以外の言語に訳されていた中上の単著が『岬』(1986年、オランダ語)、『千年の愉楽』(1988年、フランス語)、『枯木灘』(1989年、フランス語)の三つしかなかったことを考えると、世界的な知名度はきわめて限定的だったと言わざるをえない。それでノーベル賞が取れていたとは思えない。しかしいずれにしても、中上が「世界に対する商売の拠点」(Œ12)であるパリから日本を代表する作家として世界の読者を見すえていたことだけはたしかである。
 中上の死後、フランスにおいては、1994年に『日輪の翼』、1995年に『讃歌』(1990)、2000年に『地の果て至上の時』の翻訳がファイヤール社より出版されている。また、1998年に『岬』、2004年に『奇跡』(1989)の翻訳がフィリップ・ピケ社によっても出版されている。『奇跡』の翻訳出版の際には、作家のフィリップ・フォレストが『artpress』2004年11月号で、次のように中上を紹介している。

『奇蹟』はすでに七つ目に翻訳された中上健次の作品になる。ところが、フランスの読者が現代日本語文学に関心を持つようになってきたとはいえ、この作家の名がそれなりの重みを持つようになったと考えるには、残念ながらまだ時期尚早のようだ。1992年(46歳の年)に夭折するまでのあいだに中上は実の多くの画期的な作品を残している。しかし(ごく少数ではあるが)西洋での相応の評価を受けている日本語作家のなかにしかるべき場所を持てずにいる。二十世紀の(漱石から、谷崎、川端を経て三島にいたるような)古典作家にも数えられないし、十年ほど前から大衆的な支持を得るようになった(村上龍や春樹、吉本ばななや小川洋子のような)新世代の現代作家にも数えられない。それでも、戦後生まれの作家のなかでは唯一中上の作品こそが1994年のノーベル賞作家である大江健三郎に様々な点で匹敵するし、それだけの共通点もある。中上の作品がさして知られずにいるのはその奇抜さのせいでもあるのだろう。スケールや野心の大きさ、暴力性、猥褻性といったものは、精緻だったり、遠回しだったり、簡素だったり、みやびだったりするような日本の小説のステレオタイプにそぐわないのだ。(拙訳)

 死後になっても中上健次のフランスでの位置付けは微妙に定まらずにいる。基本的にはマイナーな作家にすぎないといってさしつかえはないが、ときによってはフィリップ・フォレストのように高く買うひともいる。僕の実感としては、日本における中上の位置付けに関しても、ある程度同様のことが言える気がする。すくなくとも一昔前までは、若い人のあいだでもコアな文学オタクにかぎって中上健次の名前を出したりするものだった。今のことは、僕にもうわからないけれど。いまさらになってどうして中上健次を、という呆れたようなため息がそこかしこから聞こえてくる。

1. 2. 物語論者としての中上

 中上健次についてひとつ大事なことを言い忘れていた。それは中上健次は基本的に小説家として高く評価されてきたということだ。中上の死と純文学の衰退を重ねあわせるむきさえあった。たとえば、作家の佐藤友哉(Œ3)や文芸評論家の渡部直己(Œ19)は、祀りあげられた「最後の文士」としての姿を中上に見ているし、批評家の蓮實重彦も「中上健次は小説家として、おそらく文壇から出た最後の人でしょう。その意味では非常に文士的なところがあって[…]保守本流の最後の人でしょう。そのあとあんな人は出てきてません」(柄谷 1997)と述べている。このように生前からすでにある種の古めかしさというか、硬派な匂いというか、滅びゆくものの持つ哀愁のようなものを漂わせていたらしい。そして実際、文士という肩書に恥じないだけの名作、文学史に刻まれるに値するような名作を中上はきっと残してきたのだろう。かくいう僕自身は、中上健次の小説をさして読みこんでいるわけではない。おすすめの中上健次の小説は? と問われたら、ちょっと言葉に詰まってしまう。ただ、その程度の知識しかない僕もこれまでに様々な人が小説家としての中上健次について多くのことを語ってきたことくらいは理解している。
 中上は死後になって日本語文学のカノンに本格的に組みこまれてゆくことになる。1997年には柄谷行人らの尽力によって全15巻の『中上健次全集』が集英社より出版された。2014年には全10巻の『中上健次集』がインスクリプト社より出版された。さらに2017年には全21巻の『中上健次電子全集』が小学館より出版された(フランス在住の僕はもっぱらこの電子全集のKindle版を通して中上の作品に親しむようになった)。
 文芸の界隈においては、至文堂の『国文学』(1985, 1991, 1993)、青土社の『ユリイカ』(2008)や河出書房新社の『KAWADE夢ムック』(2011)、平凡社の『別冊太陽』(2012)、集英社の『kotoba』(2015)といった文芸誌も折に触れて中上特集を組んできた。また、柄谷行人(2006)や、蓮實重彦(1989, 1995)、渡部直己(1996, 2013)、四方田犬彦(1996)、守安敏司(2003)、河中郁男(2014, 2015, 2016)をはじめとする批評家たちが相当数のまとまった文芸評論の仕事をしている。また、日本においては、学問としての文学と文芸の世界はあいまいに重なりあっているが、長年にわたってその橋渡しをしてきた中上健次研究の第一人者は、高澤秀次である。これまでに出版された数ある全集や選集の編纂や監修に関わったり、新宮市にある中上健次資料収集室や熊野大学の運営にも携わってきた高澤は、中上の評伝をはじめ、年表や事典、発言目録を作っている。本稿もその多くを高澤の仕事に負っている。
 学問としての文学の世界では、僕の知るかぎり、渡邊英理や浅野麗や石川真知子、亀有碧、松田樹といった研究者が中上を論じているが、なかでも渡邊英理が2022年に出版した『中上健次論』は、現代における新しい中上研究のあり方を示す大著といっていい。ちなみに、フランス語圏においては、Jacques Lévy(1997)やAnne Bayard-Sakai(2010)、Maxime Brisset(2012)らが中上の作品の分析を行っている。英語圏では、中上のコロンビア大学での教え子でもあったEve Zimmerman(2008)やAnne Macknight(2011)が単著としてのまとまった仕事を発表しているほか、Alan Tansman(1998)やNina Cornyetz(1999)などの仕事がある。また、ノルウェーのAnne Thelleの仕事が英訳(2010)されてもいる。
 このように数々の名前をざっと列挙してみるだけでも、中上の死から三十年の時が経つなかでじつに様々な人が中上に関心を寄せてきたことがわかる。ただ、もう一度繰り返せば、基本的には、小説家としての中上健次に。というのも、あまりに自明なことだけれども、中上の本業はなにより小説を書くことだったからだ。あるいは、晩年に本人が好んでいた言葉を使えば、中上はなにより物語者、つまり物語を紡ぐ者であり、物語という日本の伝統を継ぐ者でもあった。ようするに、フランスにかぎらず日本においても、中上は基本的にいわゆる文学という畑のなか、とりわけ日本文学という畑のなかに留めおかれているということだ。中上の署名付きのテクストがその外に連れ出されることは、めったにない。外に連れ出したところで、多分あまり関心を引かない。
 文学業界においては日常的なことなのかもしれないが、これはそれなりに問題含みの事態であるように僕の目には映る。中上本人が文学や小説といった枠組みを問題にしつづけてきたこと、もっといえば自分が日本語作家以外の何者でもありえないことを問題にしつづけてきたことを考えると、口惜しい感じがする。なにより中上は、文学の枠に収まらないテクストを膨大に残している。たとえば、全21巻からなる『中上健次電子全集』(小学館)の内訳を見てみると、そのうちの12巻(Œ1, 2, 3, 5, 6, 9, 10, 11, 13, 14, 15, 18)が文芸作品を収録している。劇や漫画の原作を収めた巻(Œ6)を含めると、全集の六割近くが物語としてのテクストが占めていることになる。その一方で、残りの四割の内訳はエッセイやルポルタージュ、評論が4巻(Œ4, 7, 8, 17)、講演が2巻(Œ12, 16)、対談が3巻(Œ19, 20, 21)となっていて、物語の創作以外にも中上が相当量の仕事をしていることがわかる。全6巻に及ぶ第三文明社の『中上健次発言集成』(1995)や作品社の『中上健次未収録対論集成』(2005)が出版されていることからもその重要性が伺い知れる。
 昨今ではすっかり廃れてしまった言葉をここであえて使えば、生前の中上は数々の人文系の「知識人」の仲間に囲まれる中で、彼らへのコンプレックスやライバル意識を抱えつつ、文学や文芸という枠組みを超えたところにある自分なりの知識人としてのあり方を模索していた。実際、中上は1970年代の後半から「部落青年文化会」や「隈ノ會」、「熊野大学」といった懐の広い知的交流の組織を立ちあげ、じつに多様な立場の人とのつながりを持とうとしてきた。しかし、これらの仕事は文士としての中上の際立ちと輝きのなかにともすると埋もれてしまう。あるいは、こういってよければ、文士としての中上健次という一つのテクストの全体のなかに回収され、それ自体としてはあまり光が当てられずにいるような嫌いがある。
 ここでひとつ疑問が湧く。中上のことを本当に小説家と言い切ってしまっていいのだろうか。中上から小説をさし引くと、何が残るのだろうか。この問いに答えるのは容易ではない。しかし『時代が終わり、時代が始まる』というエッセイ集の後記に書かれていることが一つのヒントにはなるかもしれない。

小説家である私は様々なメッセイジを発したい。核実験、核兵器所有に反対である。原発にも反対である。南アフリカの人種かく離アパルトヘイトにも反対である。在日外国人の指紋押捺にも反対である。だが小説家として、それをどう伝えよう。私は一切の現実的方法を持たない。行動はとっくに断念した。考えるしかない。しかし、考えるから、孤立する。エッセイが小説家に有効性をもつのはこのような時である。

Œ17

 一見さらりと書かれているように見えるけれど、周到に練られた密度のある文章である。中上は小説家である。それでも、小説の形では発信することのできないメッセイジを抱えてしまう。しかし、中上は行動する知識人ではない。一切の現実的方法を持たない小説家である。だから、エッセイを書くしかない、という。では、そのメッセイジとは何なのか。中上が例示しているように、ある種の政治的な立場の表明のことなのか。そう思って中上の残したエッセイの目次をざっと眺めていると、テーマがじつに多岐にわたっていることがわかる。たとえば、1968年の永山則夫連続射殺事件のこと。サックス奏者のアルバート・アイラーのこと。演歌歌手の都はるみのこと。アメリカや韓国での暮らしのこと。ランダというバリ島の魔女のこと。説経節のこと。レゲエの祖であるボブ・マーリーの死のこと。例を挙げれば切りがない。しかし、僕は同時にあることに思いあたった。
 それは「物語」という語が目次のなかに頻出しているということだ。たとえば、次のような見出しが目に飛びこんでくる。「物語星」人の血が騒ぐ。物語ることを断念した物語。物語が輪舞する。物語の系譜。物語・反物語をめぐる150冊。神話から物語へ。物語=資本。ワープする物語の魅力。物語の定形。写真の物語力。反物語を今読む。物語の定形ということ。制度としての物語。物語について。アンチ・アンチ物語。物語の源泉。物語の復権。マルチ物語論。物語とは何か、などなど。これらのテクストを実際に読んでみると、中上が「物語」という語への異様な執着を見せていることがわかる。単なる一時の気の迷いといった類のものではなく、作家としての本格デビューを果たした1975年ごろから晩年の1990年ごろまでの約15年間に渡り、ことあるごとに物語についてのまとまった発言をしている。しかも、よく意味がわからない。あまりに形而上学的で、本人の頭のなかでもうまく整理されていないようなふしがある。たとえば1988年の次のような発言。

物語ってのは、こういうことなんです。単に日本で物語というと、いろんな思想的なレベルってあるんだけど、 いつも、物語はメタである。だからどこでも浸透する。[…]すべてのものと対立項にならない、すべてのものを超えてしまうのが、 物語である。その物語を、僕はしゃべりたいわけです。

吉本 1988

 意味がわからない。それは中上がこのとき言葉を重ねて説明しようとしている箇所を[…]で僕が隠しているからではない。あとでわかるように、中上の説明には、読めば読むほどかえって意味がわからなくなってくるようなところがある。結局、何が言いたいんだ、となる。本人が認めているように、中上にはある種の「神学」(Œ8)を語っているという自覚があった。別のところでは、物語の根源にある「ヴァイブレーション」をはっきり「神と呼んでもいい」(Œ16)とさえ言っている。非常に胡散臭いと言うほかない。さじを投げてしまいたくなる気持ちもわかるが、僕の場合はそこで中上が何を言おうとしているのかがつい気になってしまった。そこでKindleの単語検索機能を使って『中上電子全集』のうち、文芸作品以外のものを主に収めた9巻 (Œ4, 7, 8, 12, 16, 17, 19, 20, 21)でどれくらい「物語」という語が使われているのかを確認してみると、結果、4634件に及ぶヒット数になった。内訳は以下のとおりである。

  • 中上健次電子全集04:エッセイ集 1960年代〜70年代【149件】

  • 中上健次電子全集07:紀州熊野サーガ4【137件】

  • 中上健次電子全集08:エッセイ集 1970年代〜80年代【966件】

  • 中上健次電子全集12:オルガナイザー中上健次の軌跡【521件】

  • 中上健次電子全集16:中上健次 大いに語る【554件】

  • 中上健次電子全集17:エッセイ集 1980年以降【435件】

  • 中上健次電子全集19:全対話集Ⅰ【235件】

  • 中上健次電子全集20:全対話集Ⅱ 【1307件】

  • 中上健次電子全集21:中上健次と柄谷行人【330件】

 僕はとりあえず、ここに書かれていることを読むことにした。そして、中上のいう物語って何だろう、という疑問に、僕なりの問いを出してみることにした。とはいえ、高澤秀次の『中上健次事典』には「物語」という項目があったので、まずはそれを引くことからはじめてみることにする。

物語のパロディとして近代小説が誕生したとするなら、作家・中上健次が実践したのは、近代小説の限界を、近代以前のモノガタリ的想像力の再導入によって、いかに突破できるかという実験的な試みだった。活字文化とともにある“眼の物語”ではなく、それ以前に蓄えられた“耳の物語”の再評価——それは近代小説以後の「超物語」を準備する前提だった。しかも彼の生まれ育った「路地」は、耳の物語の宝庫であり、『神道集』や『説経節』の世界と地続きにあった。

高澤 2002

 正直、難しい。ただ、すくなくとも一つここから読みとれることがある。活字を目で追う「目の物語」としての近代小説の限界を中上は問題にしていたらしいということだ。そのときに中上がむかったのが近代以前の「耳の物語」ということらしい。当たり前のことだけど、小説(近代文学)と、物語は違う。中上はこの違いにこだわったようだ。さしあたりそのことを念頭に起きつつ中上が物語について語っている箇所を読みすすめていきたい。
 というか、僕は一度全部読んでみたのだけど、読んだあとになって、何の読解の方針もないまま読むことの危うさに気づいた。というのも、中上の思考のあり方にはとても特徴的なところがあって、その性格をあらかじめ理解した上で向かいあわないと、苛立ちが爆発して付きあいきれなくなってしまう。このことは、日本語の思考一般にもある程度あてはまる問題でもある。日本語を話しているかぎり、どうしても陥ってしまう罠があり、中上もそんな罠のなかにいたのだ。
 ただ、中上のきわめて面白いところは、そんな罠をある種の豊かさへと転嫁するような特殊能力を持っているということで、そしてその罠に対してある程度自覚的にむきあった作家でもあった。ある点においては、それが中上の物語論を構成する柱のひとつでもある。やや遠回りをする形になってしまうのだけど、いきなり徒手で意味不明のテクストに立ちかうのではなく、あらかじめこのような日本語の罠について考え、その上で読解の方針を立てることにしたい。

参考文献

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