わたしが映画として見たキリンジ『アルカディア』(脳内で)

※この記事は文学サークル「お茶代」の課題として作成しました。全文無料でお読みいただけます。

本文

「無」をこの世界にもたらす存在は、その存在自身の「無」である。
J・P・サルトル

 女はオブジェのように、寒空の下、立ち尽くしていた。右手には「海へ」と書かれた紙、左手はサルトル。どのくらいの時間が経っただろう、そこに一台の車が止まり、二人組の男たちが降りてきた。珍しいことに日本人だ。
「乗りますか?」と運転席に座っていた男が尋ねてきた。
「ええ。海までいいですか?」
「僕らもそっちへ向かう予定だったんだ。いいよ、後ろの席へどうぞ」
 道脇の木々はみな葉を落とし、丸裸で冬の静寂に耐えている。何もない退屈な一本道が、どこまでも続いているかのよう。
 バックミラーから見える女は、ずっと無表情だ。
「大丈夫?」
と運転する男が声をかけても、返事がない。ただじっと、前を見つめているだけ。その瞳が捉えているのは何か、とんと予測がつかない。
「僕はホリコミ。こいつは相棒のホリコメだ。よろしく」
「わたしはマリーです」
 二時間ほどのあいだ、女が車中で話すのはそれっきりだった。
 森を通り抜け、草原へ出た。
「ここらで一度休憩にするか」ホリコミは近くの小さな丘に車を停めた。
「その本、置いといてもいいぞ」とホリコメが言っても、マリーの返事はなかった。それほど大事なのだろう。
 女が化粧室から戻ると、二人は歌っていた。詞はなく、もっぱらラララで通している。どことなく憂愁を帯びた、もの悲しいメロディだ。
「いい曲ですね」珍しくマリーが反応する。
「ありがとう、作りかけだけどね」とホリコミ。「実は僕ら、歌手なんだ」
「有名なの?」
「そこまで」と答えながら、ホリコメは自嘲気味に笑った。「そこら中をあてもなく彷徨う、しがない歌うたいさ」
 車に戻ったあと、話題はマリーの持っている本に移った。ホリコミは哲学が全く分からないため、運転しながら二人の話を聞いていた。
「サルトルはどんなことを言っていた?」
「彼は無神論的実存主義なんです」
「わからない。おそらく日本語訳しか知らない単語だ」
「実存を規定する創造主を否定する思想のことです。他にはニーチェやハイデガーがいますね」
「そういうことか。でも一方、彼は歴史の法則性を肯定したはず」
「それが納得いかないんです。彼の哲学は好きだけど」
「わからなくもない」とホリコメは相槌を打つ。「結局人間は自由ではないということになるからな。俺たち一人一人が、歴史の創造物でないと言い切ることは難しい」
 その後もホリコミは車を走らせ、夜は車中泊することにした。満月の下、眠れないマリーは「存在と無」の頁をめくり続けていた。

 太陽が弱々しい光を放ちはじめ、しばらくすると、三人は出発した。
「停めてください」一時間近く経ったころ、突然マリーは言った。「このあたりに実家があるんです」
 待っているあいだ、二人は車の脇で路上ライブをしていた。聴いていたのはただ一人、偶然通りかかった警官だけ。
 歌い終わると、聴いていた警官は「すばらしい!」と一言、自転車で走り去っていった。用事を済ませたらしいマリーが、入れ替わりになった彼の背中を見ると、早々に車へ乗り込んだ。
「こんなに短い再会でよかったの?」
「ええ。他にも寄りたい場所があるんですけど、いいですか?」
 それからマリーは教会、次いで街なかの小さな商店に訪れる。電話ボックスへ向かう彼女と一旦別れ、二人は暇つぶしに新聞を買って読み始めた。
「テロだって。物騒だな」
「俺たちだって好き放題やってただろ。方法は少し違うが」
「もう随分経つな。あの頃は楽しかった」
「湿っぽいことを言うな。振り返っても何もない。無力さを嫌というほど見せつけられただけじゃないか」
「でも実際そうだったろ。現実を成り立たせる根拠はない、故に確固たるものではないと信じられた時、少なくとも僕らは幸福だった」

「ここまでありがとうございました。ご一緒するのがお二人でよかったです」
「こちらこそ。短いあいだだったけど楽しかったよ」
 砂浜に停めた車からマリーが降りる。振り返った彼女は背後の陽の光を背に受け、
「これがわたしのプレゼント。後ろ、見て」
 二人が後ろの座席を見るのと同時に、マリーは時計を確認した。
 一九八二年十一月十三日、十六時零分。パリを中心に連続爆破事件が起こったのは、この時だった。
 炎上する車から濛濛と上がる黒煙。それを無表情でしばらく見つめた後、女は再び歩き出した。
「さあ、次はどこを狙おうかしら」

感想

 この文章はキリンジの楽曲「アルカディア」のMVを小説にしたものになる。

 エピグラフで使われているサルトルの言葉はMVの女性、小説でいうマリーを指しているのだろう。映像内でもたびたび強調されるのを観て、物語を結末へ導くテロリズムとサルトルをどう結びつけるかという所から考え始めた。

 「オブジェ」という言葉を用いているように、ヒッチハイクをしている彼女は僕の目に物体として映った。オブジェというとエロティシズムと繋がってくるが、この部分を全体の流れと接続させたかった。ほぼ一日で書いたことが少し悔やまれる。

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