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ウィットとユーモア

 僕が笑いに関心を持つきっかけは、西部邁最後の弟子を名乗り、雑誌「表現者クライテリオン」に多数投稿されている平坂純一さんだった。
 平坂さんは笑いをウィットとユーモアに大別して論じられ、獅子文六論のほか、YouTubeチャンネル「平坂アーカイブス」でも度々触れられている。ウィットが「知性による高みから個別的な時代や場を切り取るような乾いた諧謔」*1であるならば、ユーモアは「自らが時間と空間を超越した普遍性に近づかんとするも、及ばない悲しみ、自認のある道化」*2と言える。

 氷のような冷たい明晰と、主体性を引き受けたぬくみのある知性。萩原朔太郎は芸術を主観主観的なものと客観主義的なものに大別していたが*3、ユーモアは主観主義的、ウィットは客観主義的と言えるのかもしれない。

 映画「喜劇 駅前飯店」やドリフターズなどに見られたユーモアが過去のものとなって久しい。ビートたけしの「父殺し」以来、笑いといえば専らウィットが主流だ。一度ウィットへ傾くのはいいが、その後ユーモアへの揺り戻しが起こらないのは知的および精神的に不健康であろう。父殺しがなくては後の世代はその奴隷となり、情感は腐敗していく。 

 平坂さんは獅子文六を「昭和の漱石」に位置づけ、国民作家として再評価すべきだと主張している。読んだ作品は「てんやわんや」のみだが、明らかに漱石の作品および彼が重視していたコンラッド「闇の奥」を典拠としており、近代日本文学の正統な後継者といった印象を受けた。「てんやわんや」について近いうちにその読解をまとめようと思う。

 先ほどユーモアを主体性を引き受けたぬくみのある知性と表現した。フランス流の知識人であった文六は絶妙な精神の平衡感覚を持っていたのは平坂さんが連載で述べられたところである。近代を意識的に引き受けながらも反発し葛藤する姿はまさに大人のそれであり、歴史と伝統を痴呆した「女子供レジーム」ではまず見かけない態度だ。

 笑いは観念と現実のギャップから生まれるが、特にユーモアは主観的な側面が強く、己の理性に懐疑的である保守との相性はいい。僕はついつい悲劇に走りがちだが、笑いあり涙ありの健康な人情ものも書いてみたいものだ。最後にユーモアとは少しずれるが、太宰治の「人間失格」における悲劇性と喜劇性のバランスは絶妙であり、目標とする作品の一つであるということを述べたうえで、この文章を締めくくろうと思う。

*1 表現者クライテリオン 2023年5月号 「葬られた国民作家 獅子文六」最終回「ユーモア小説の系譜 戦後派デカダンスの時代に」
*2 同上
*3 萩原朔太郎「詩の原理」

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