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インテリと精神分析——ロマン派芸術批評と自由連想法


フランス革命とロマン派

 中山元「フロイト入門」で指摘されているが、精神分析は、フランス革命に対する反動としてのロマン派の系譜に位置づけることができる。

 なぜ自分たちはあのような狂熱にいかれてしまったのか。
 なぜ自分たちはあの時、暴力と破壊にとり憑かれてしまったのか。
 なぜ自分たちは国王を殺めてしまったのか。

 何かを選ぶということはすなわち、何かを捨てるということ。そこに進歩などあろうはずがない。急進的な行動が後悔を伴う所以である。同様の理由で単なる反動である反革命運動も、その後のフランスに更なる混乱をしかもたらさなかった。

 そうした暴動に対し一定の共感を覚えつつも、それをたしなめ、秩序が神学的に構築されることを見通し、激動の時代にあって「精神の平衡感覚」(西部邁)を保とうとしたのが、現在反動思想家のレッテルを貼られているジョゼフ・ド・メーストルである。彼の思想については、批評誌「ラッキーストライク」創刊号および第2号へ寄稿されている、平坂純一さんの論考をお読みいただきたい(いつになるか未定だが、「火野佑亮の文化人チャンネル」で紹介・解説する配信を考えている)。

 本題に戻ろう。フランス革命を可能にしたのは「〜すれば(社会は、自分自身は、等々)良くなる」という主知主義的な思考だった。なるほどそれは甚大な被害をもたらしたが、一度革命が起きてしまったからには、その事実を踏まえた上で近代をやっていくしかない。近代とは主知主義の時代である。

 それに対し、例えばヘルダーリンなどはフランス革命を当時絶賛していたが、それは初期ロマン派の話だろう。大局的に見てロマン派がフランス革命に批判的になるのは、理性の光に対する「闇」の称揚という特徴を踏まえれば理解できる。「闇」とは理性の時代たる近代へのアンチテーゼに他ならない。その「闇」に対し、ロマン派は芸術批評を以て向き合う。

ロマン派芸術批評と精神分析

 ドイツ・ロマン派は「反省」を通しての「自己」自身との遭遇、(無意識の中に潜んでいる)真の自己の探究というモチーフと哲学的に取り組み、それを芸術批評と結び付けました。少しだけ具体的に言うと、各種の創作(ポイエーシス)された作品の内に、作者の自己の本質が——本人も自覚しない内に——反映されているはずだと前提し、それを発見することを、「批評 Kritik」の使命と見なすわけです。文学や芸術の作品は、個々の芸術家が単独で作り出しているわけではなく、神話という形で民族に共有されている、集合的な想像力の連鎖の中から産み出されるものだとされました。

仲正昌樹「ヴァルター・ベンヤミン 「危機」の時代の思想家を読む」
作品社、2011年、302,303頁

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