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「文化的小児病」から癒されるために

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 いわゆるポリティカル・コレクトネスについては、真正面から触れたくない。恨みが恨みを呼ぶ喧々囂々の議論に巻きこまれ、心身を労するのは御免被りたい。
 ポリコレを論じる人々の大多数は、その賛否を問わず、己の「正しさ」を疑っていないように見受けられる。異なる立場の者同士による、合意形成へ至るための「遊び」。これこそが議論であるにも関わらず、である。

 ホイジンガの説によると、人間の文化は「遊び」から生まれたのだという。言葉や神話、祭礼儀式、競技、裁判、戦争、知識、芸術、などなど。これらに見られる「遊び」の性格を、歴史学と民族学と言語学を横断しながら論じている。
 「遊び」は自由な行為である一方、時間や空間、また規則による制約を持つ。その限りにおいて「遊び」は真面目との間を揺れ動く。そうした虚構の中で人間はルールによる冷静さを担保しつつ、熱中する。「ホモ・ルーデンス」は、そうした営みに見られる高貴さ、誠実さ、柔軟さを記した人間讃歌である。

 ただしホイジンガは、戦争やスポーツをはじめ、近代文化から「遊び」の形式が失われているとも述べ、この状態を「文化的小児病」(Puerilisme)と呼ぶ。ここにおいて、「遊び」と「幼稚」は明確に区別される。「遊びに疲れたり、何をして遊んでよいかわからなくなったときに初めて幼稚になる」のだという。「文化的小児病」に陥っている人間について、彼は次のように考察する。

さらにより深く秘められた基盤で関係しているのは、旺盛なクラブ意識とその付属品としての示威的なクラブ標識、型にはまった手のジェスチュア、連絡や確認の音(応援のエール、拍手、挨拶の合図のしきたり)、足並みと隊列をそろえての行進などだ。そして、今あげたものよりいっそう深い根を張っていて、それこそピュエリリズムの名でとらえられてしかるべき 一連の特性は、ユーモアに対する感情の欠如、言葉に激しやすいこと、グループ以外の人に対する極端な嫌疑と不寛容、賞讃につけ非難につけ見境なく誇張すること、自己愛や使命感におもねる幻想にとり憑かれやすいことなどだ。

ヨハン・ホイジンガ「ホモ・ルーデンス
文化のもつ遊びの要素についての
ある定義づけの試み」
里見元一郎訳 講談社学術文庫 2018年

 この記述の特に後半部分に挙げられている諸々の特徴は、インターネットで繰り広げられるフェミニズムやルッキズムに関する議論に散見される。それは反対する立場とて同様だ。

 脱輪氏は「現実内リアリティ」と「虚構内リアリティ」という語を用いて、現実とフィクション、両者における表象の違いについて説明している。なるほど認識論的には現実も表象に過ぎないが、物自体を加工するフィルターは、観察者の表層意識に支配されない。対してフィクションは、予め他者によって編集された作品を、「これは虚構である」という認識の制約のもと、鑑賞される。

 個人的なことは政治的なこと、確かにそう言えなくもない。そして政治も芸術と同様、仮面を用いて行う「遊び」であり、両者は深層において繋がっている。ただし仮面が仮面であることを忘れ、虚構の外部を見失えば、その行いは内側から腐っていく。醒めていなければ酔いを感じられない、人間はそういう動物である。

 福田恆存は、キリスト教文明の深層における主体と客体という構造に注目し、ここに「客体を領有せんとする自己拡大慾」を見る(「藝術とは何か」)。これの影響を余儀なくされた結果、「芸術において主体性を保持できるものは芸術家だけということになってしまった」。「自己を消費し、自我を貯蔵庫をゼロにするために観劇」する、ギリシャ悲劇の精神は忘れ去られた。近代芸術が英雄と化した個性を崇拝させる装置となるのもむべなるかな。

 我々人類は今一度、虚構を虚構として割り切り、自我意識から解放されることを思い出さねばならない。かつての健康な感情の動きと気高さは、その時取り戻されるのだ。

脱輪さんによるご批評

 その昔『視覚文化「超」講義』という本を読んだ時(個人的にはいただけない内容ながら、当時人文書としてはかなり売れたようです)、“Hobby”という概念が紹介されていたのをおもしろく思いました。うろおぼえですが、たしか今で言う“趣味”=“Hobby”という観念が生まれたのは戦後アメリカにおいてだと。

 まあこの話自体だいぶ怪しいですけど、僕が不満を覚えたのはバタイユの言う“余暇”=“recreation”の概念がまったく一顧だにされていなかった点です。

 自身の思想のエッセンスをコンパクトにまとめた講演録『エロスの涙』の中でバタイユは「労働」と「余暇」という概念の二項対立を人類史的な広がりの中で捉えながら、人間が芸術を嗜好し創作に駆り立てられる理由を描き出しています。おそらく“recreation”には「再創造」の意味合いが含意されていることから(原語はフランス語かもしれませんが)、「余暇」と訳すのはいかにも不適切な気がするのですが(笑)

 さて、今回火野さんの文章を読んで感じたのは、ホイジンガの言う「遊び」がバタイユの言う「余暇」にかなり近いものであろうということです。ともに制度的な「趣味(Hobby)」「スポーツ」に対置されている点も含め。もっともバタイユのそれには例によってどことなく聖なるものの気配が付き纏いますが、祭祀や宗教儀礼の虚構的な形式性を含むなら、ホイジンガの「遊び」にもバタイユ的な聖なるニュアンスは多少なりとも含まれていそうですね。 両者を比較検討してみたくなりました。

 最後に、拙文に関して入門の内容を遥かに超える激ヤバ問題ゆえちらりと触れる程度に留めたのですが、「リアリティ」はわれわれのからだとこころのフィルターを通じて初めて感得される性質のものなので認識論的解釈でひとまずよいとして、「リアル」はやはり難しい。とりわけここで提出している「虚構内リアル」なる概念は考え始めると迷宮に迷い込むたいへんな難物です。
 「虚構内リアリティ」が「現実内リアル」=ミメーシスから全く独立した領域=「虚構内リアル」のみを参照して生まれてくることは可能か?そもそも「虚構内リアル」なんて本当に存在するのか?という問題です。
 おそらくこの二つの問いに対して多くの人が(特になにかを作っている人間は)“直感的には”「可能だ」「ある」と回答するだろうと思うのですが、しかし、この感覚を言葉で説明するのはたいへん難しい。
 というわけで僕は「虚構内リアル」の領域の“実在”、及び「虚構内リアル」のみを元手にした「虚構内リアリティ」の発生(純粋虚構)を突き止め、理論化したい。言葉で自分を納得させたいと考えているんですね。 まあこれは明らかに僕の力量を上回る問題であって、いつかできたらな願望ではありますが(笑)

その他リンク・追記

西部邁は、討論の場において支配的な意見に対し、往々にしてあえて反対にまわった。
これはつまるところ、討論を「遊び」(ホイジンガ)であると理解していた為だろう。(
午後3:32 · 2023年6月7日

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