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その時あなたは何してた?: 1987年 バブル景気

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1987年

1987年の新語大賞は「マルサ」、流行語大賞は「懲りない〇〇」でした。

主な出来事は、NTT上場、ゴッホの「ひまわり」約53億円で落札、国鉄分割民営化・JR誕生、石原裕次郎が死去、マイケルジャクソン来日、ブラックマンデー、後楽園球場の閉場、鈴鹿で初のF1日本グランプリ開催、大韓航空機爆破事件、利根川進がノーベル賞受賞などでした。

ゴッホの「ひまわり」は、この年、安田火災海上保険(現、損保ジャパン日本興亜)が、約53億円で落札しました。一枚の絵画が取引としては、当時の世界最高額でした。

1987年「バブル景気の始まり」として注目⁉️

このひまわり落札は、バブル景気の最中に日本の企業や個人が海外の絵画を買い漁る先例となりました。

90年には大昭和製紙(現、日本製紙)の名誉会長だった斉藤了英氏が、ゴッホとルノワールの2作品を合計244億円で落札しました。

斉藤氏は「死んだら絵を棺桶に入れてくれ」と語り、世界中から批判を受けました。

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1985年の「プラザ合意」では、為替をドル安に誘導することで米国の貿易赤字を解消することを目的としていましたが、ドル安は進んだものの貿易赤字は、それほど改善することはできませんでした。

プラザ合意後にドルは下落が続き、プラザ合意前の1985年8月末に1ドル237円であった為替レートは、1年後の1986年9月末には153円まで下落しました。

しかし、ドル安を背景に米国経済には、再びインフレ懸念が高まっていました。1987年2月22日、パリのルーブル宮殿でG7が開催され、プラザ合意で進んだドル下落を止め、為替を安定させるために協調政策をとることを決定しました。これがルーブル合意です。

G7の協調政策は順調に進むかに見えましたが、実際には長続きせず、1987年9月、西ドイツは、米国の反対を押し切り、インフレ対策として利上げに踏み切りました。

これを受けて各国の株式市場では「G7の協調政策が破綻した」との懸念が急速に広がりました。そんな状況の中で、1987年10月19日にブラックマンデーが起こりました。米国のダウ平均株価は、508ポイント、1日の下落率としては、過去最大の22.6%下落しました。

日本のバブル景気は、1986年12月から1991年2月までの経済拡大期間を言う説が有力です。

ただ、土地価格や株価が、一本調子で上がり始めたのは、ブッラックマンデー後の1987年後半であり、この年がバブル景気のスタートと考えていいのではないでしょうか?

バブル絶頂期は1989年12月29日
取引時間中の最高値3万8957円44銭
終値は3万8915円87銭

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プラザ合意は、米国の庇護の下で成長を続けてきた日本や西ドイツを米国が突き放した出来事でした。

その後のルーブル合意、ブラックマンデーを経て日本は米国から独り立ちできたと勘違いしてしまうバブル景気を謳歌しました。

「部分最適」「属人依存」が得意で排他的なムラ社会の中で、死ぬまで働く「長時間労働」の三種の神器で、アメリカに勝った、勝ったと浮かれ、ジャパン・アズ・ナンバーワンともてはやされて、アメリカニューヨークのシンボルであるロックフェラーセンターを三菱地所が買収してしまうまでになっていました。

スティーブジョブズやビルゲーツのような次世代に未来をつむぐ改革はおろか、ワンパターンのムラ社会には、ろくなキーワードは残っていません。

リゾート開発とバブル三業種、その他にも、財テク、住宅すごろく、地上げに、地価高騰、などなど・・・人口減少の超高齢化社会では、二度と来ないであろう、バブル景気に浮かれた愚行の始まりが1987年でした。

1986年を読む
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