『マチネの終わりに』第六章(57)

 後戻りするつもりはまったくなさそうで、その上でこちらの反応を気にしている様子だった。最初のメールを読んで以来、どこかでまだ、信じられないと拒んでいた現実感が、念押しするように、彼女に手渡された。

「事情が事情だけに、洋子さんならきっと理解してくれると信じてる」という一文に、何度となく目が行った。面と向かってそう言われたなら、きっと頷いただろう。それでも、「ちょっと、残酷な言い方ね。」と抗議したに違いなかった。

     *

 蒔野は翌日、正午近くになっても洋子から連絡がないので、心配になって、再度短いメールを送った。が、昨夜の二通同様、返事はなかった。

 戻ってくるわけではないので、届いてはいるのだろう。壊れた携帯を朝一番で新調したが、データの恢復は難しいらしく、洋子の電話番号はわからないままだった。スカイプでも何度か連絡してみたが、やはり応答はない。

 祖父江は手術の結果、一命を取り止めたものの、意識はまだ戻っていなかった。

 奏(かな)は、何かあればすぐ連絡するからと、蒔野を帰宅させ、その後改めて、しばらくは大丈夫だと思うとメールで伝えてきた。

 蒔野は、洋子からの返信がないのは、最初、海外ローミングだとか何とか、携帯電話の問題なのではないかと考えていた。しかし、海外経験も豊富なジャーナリストの彼女が、一晩経って、まだその程度の問題を解決できないとは考え難かった。電話番号を尋ねても返信がない。そうしてようやく、彼は彼女が、気分を害しているのではということを、深刻に考え始めた。

 連絡も出来ずに、新宿で待たせていた間は気が気でなかったが、三谷の電話からのメールで事情を説明したあとは、彼はただ、祖父江の容態だけを心配していた。

 自分にとって、祖父江がいかに大切な存在であるかは洋子にも以前に話していた。その彼が、生死の境を彷徨っているという時に、約束通りに会えなかったからといって、あの洋子が激怒するなどということは、どうしても考えられなかった。

第六章・消失点/57=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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コメント1件

相手を尊敬、尊重する気持ちと、相手なしでは居られない渇望、依存心が綱引きしているような。
間違った情報がきっかけだけれど、洋子さんが葛藤の先手を取って、蒔野さんは後手。
男の自分としては、蒔野さんの鈍さに共感しつつ、洋子さんの葛藤を尊敬する。どー展開するのでしょう?ドキドキです。
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