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新書『「カッコいい」とは何か』|第10章「カッコいい」のこれから|2「カッコいい」と日本

「カッコいい」を再発見することによって、古典として遠ざけられ、死んでしまった作品が、今日新たに息を吹き返す可能性は大いにあるだろう――。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売に先駆けて、序章、終章、そして平野が最も重要と位置付ける第3章、4章を限定公開。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。
※平野啓一郎が序章で述べる通りの順で配信させていただきます。
「全体のまとめである第10章にまずは目を通し、本書の肝となる第3章、第4章を理解してもらえれば、議論の見通しが良くなるだろう。」


2.「カッコいい」と日本

その源流を辿って
 60年代以降、日本に定着した「カッコいい」という言葉を分析するに当たって、私は多く欧米の歴史を参照したが、当然のことながら、古代ギリシアの「アンドレイア」と同様に、日本の歴史の中に「カッコいい」の源流を辿る、という作業も必要となろう。既に指摘した通り、「益荒男ぶり」や「武士道」、「義理」などが注目される。また、中国や朝鮮半島からの文化の受容も、「カッコいい」という視点から眺め直すことで、見えてくるものがあるだろう。

 しかし、「恰好が良い」は、決して自力では「カッコいい」となり得なかったし、この言葉を使用し始めた日本のミュージシャンたちが憧れていたのは、ジャズであり、またこの言葉が一般に普及し出した時、聴かれていた音楽はロックだった。また「カッコいい」服装とは、明治以来、欧米の洋服であり、女性誌が目指した「女らしいカッコよさ」も、基本的にはモードの影響下にある。

 私たちが行い得ることは、「義理」のように、「カッコいい」という言葉の形成に影響しているであろう概念を歴史の中に探ることの一方で、「カッコいい」という言葉がなかった時代に、敢えてこの価値観を投影し、「カッコいい」を新たに発見、もしくは創出することであろう。

『平家物語』の「カッコいい」場面 
今日でも、歴史に題材を撮った映画やドラマのアダプテーションは、いかに「カッコいい」場面を拾ってくるかを重視している。

 例えば、『平家物語』巻第十一の有名な屋島の戦いの那須與一の場面を見てみよう。

 夕刻になり、今日の戦いもひとまず終わりだろうと、義経軍が引き上げかけた時、思いがけず、平家の船から、この扇の的を矢で射てみよという挑発を受ける。受けて立つべく、推挙されたのは、当時二十歳くらいだった與一である。義経からの命に、自信がないと一旦は辞したものの、結局、引き受けざるを得なくなった、というのが、ここに至るまでの経緯である。

 矢頃少し遠かりければ、海の中一段ばかりうち入れたりけれども、なほ扇の間は、七段ばかりもあるらんとこそ見えたりけれ。頃は二月十八日酉の刻ばかりの事なるに、折ふし、北風烈しう吹きければ、磯打つ波も高かりけり。船は揺り上げ揺り居ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。沖には、平家船を一面に並べて見物す。陸には、源氏轡を並べてこれを見る。いづれもいづれも、晴れならずと云ふ事なし。與一、目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現・宇都の宮・那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真中射させて給ばせ給へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向ふべからず。今一度、本国へ帰さんと思し召さば、この矢はづさせ給ふな」と、心の内に祈念して目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにこそなりたりけれ。與一鏑を取つてつがひ、よつ引いてひやうと放つ。小兵といふ条、十二束三伏、弓は強し、鏑は浦響くほどに長鳴して、あやまたず扇の要際一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚りける。春風に一揉二揉もまれて、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の、夕日のかがやくに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には、平家舷を叩いて感じたり、陸には、源氏箙を叩いてどよめきけり。(1)
(現代語訳)
 矢の射程距離からは少し遠かったので、海の中に馬ごと一段(約十一メートル)ほど入ったが、それでも扇との距離は、七段くらいはありそうに見えた。
 二月一八日の午後六時頃のことで、折しも、北風が激しく吹いて、磯を打つ波も高かった。
 船は上下に揺れながら漂っていたので、扇も竿先で閃いている。沖では、平家の兵たちが、海原一面に船を並べて見物している。陸では、源氏の兵たちが、馬の轡を並べて見ている。いずれにせよ、ただ事でないことは確かだった。
 與一は目を閉じた。
「南無八幡大菩薩、我が下野国の神よ、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神よ、どうかあの扇の真ん中を射させ給え。これを外せば、俺は弓を折って自害する。二度と人と顔を合わせることは出来ない。もう一度、俺を本国に帰してくれるおつもりなら、この矢をどうか外させないでくれ。」
 胸の裡でそう願って目を開けると、風が少し弱くなって、扇も先ほどより射やすそうになった。
 與一は鏑を取って弓につがえ、十分に引き絞って、ヒュッと放った。小兵とは言うものの、十二束三伏もの矢を放つ弓は強い。鏑は浦に響くほどに長く尾を引いて鳴り、正確無比に扇の要の際から一寸ほどを置いた下を、パアンと射切った。鏑は海に落ち、扇は宙に舞った。そして、春風に右に左にと揉まれると、そのまま海へと散ってしまった。
 落日の輝く白浪の上に、深紅の扇が漂い、浮きつ沈みつしながら揺られていた。
 沖の平家軍は、船端を叩いて感嘆した。陸からは、箙を叩いて騒然とする源氏軍のどよめきが聞こえた。

『平家物語』は、ご存じの通り、琵琶法師が琵琶を弾きながら語る軍記物だが、この場面は、厳しい条件下の與一の勇敢さと集中力、奇跡的な一瞬の到来、更にスローモーションのような扇が射貫かれた瞬間の華麗な描写、夕陽と白浪、扇の深紅との対比、一瞬の静寂とその後の爆発的な歓声と、今日、私たちがよく知っている「カッコいい」場面そのもののように書かれている。サッカーのワールドカップ決勝戦のPKシーンの描写としても、まったく違和感がないだろう。

 実際に、当時、この件を聴きながら、「鳥肌が立った」人たちも少なからずいたのではあるまいか。

 誰がどう読んでも、「カッコいい」としか言いようがない場面だが、「カッコいい」という言葉がこれまで軽んじられてきた結果、私たちは、国語の授業や古典文学鑑賞で、これを素直に「カッコいい」などと表現することは出来なかったし、すれば馬鹿にされるか、窘められていただろう。しかし、ちょっと違うとは感じながらも、「美しい」場面と表現すれば、受け容れられたのだった。

 勿論、この件が当時、「カッコいい」場面として書かれたわけではない。飽くまで今日の私たちが、1960年代以降に知った感覚を通じて、「カッコいい」と認識しているに過ぎない。しかしだからこそ、この件は、今日の映画やドラマで、「カッコいい」場面として十分に見せ場になるのである。

 中国の古典『三国志』を漫画で読んで「カッコいい」と感じるのも同様であり、また、映画の『レッドクリフ』なども、同様にその作中から探し当てられた「カッコいい」場面の映像化である。

 そして、このように「カッコいい」を再発見することによって、古典として遠ざけられ、死んでしまった作品が、今日新たに息を吹き返す可能性は大いにあるだろう。

脚注
(1)『平家物語』(佐藤謙三校註)

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