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『マチネの終わりに』第九章(12)

 そうしてようやくCDを再生した彼女は、自分を酷く浅はかに感じた。

 洋子は、自分がかつて彼を愛し、彼に愛されていたという事実さえも半ば忘れて、音楽家として彼に魅了され、同世代人として彼を尊敬した。うまく言葉にならないような強い、深い感動があり、それが何なのかを考えた。とにかくただ、「いい音楽」と言うより他はなく、彼に一言、「おめでとう。」と言いたかった。そして、この作品のために、早苗の存在が不可欠であったとするならば、彼女にもやはり「おめでとう。」と言うべきだった。

 ジュネーヴで働き始めてほどなく、洋子は知人に紹介されたとある有名レストランのシェフに求愛されていた。少し年上の離婚経験のあるスイス人で、パリの二つ星の店で修行したというその腕前は確かで、すぐにお気に入りの店になった。訪れる度に長話になり、ホーム・パーティにも招かれ、二人で二度、夕食を共にした。彼とつきあうのも悪くないかもしれないと、心が傾いたこともあった。

 結局、彼女の多忙さのせいもあって、それ以上、発展することなく終わった関係だったが、蒔野かリチャードかという二人の男性の間でだけ揺れていた五年間だったので、そんなふうに別の愛の可能性を感じられたというのが、自分でも意外だった。そして、蒔野の記憶が少し遠くなった気がした。新しい仕事仲間ともうまくいっていて、ケンに会えない寂しさを除けば、独り暮らしも悪くなかったが、それでも折々孤独を感じた。

 蒔野のNY公演の情報を知った時、洋子は手帳を開いて、自分がその時、丁度NYにいることを確認した。そして、チケットを一枚購入した。

 かつて早苗と鉢合わせになった東京でのコンサートの時とは違って、今は自分の仕事に生き甲斐を感じていた。恐らくそのコンサートに行くことが、蒔野への気持ちの一つの区切りになるだろうと洋子は思っていた。会わずに帰るのか、会ってただ古い友人のように会話をして別れてくるかは曖昧なままだった。

   *

 コンサートの当日は、よく晴れた朝だった。

 前夜は幸いよく眠れて、蒔野の体調は良かった。リハーサルは順調で、蒔野も手応えを感じていたが、聴衆の反応は予想がつかなかった。


第九章・マチネの終わりに/12=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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