『マチネの終わりに』第七章(7)

「想像するだけでも辛そうだね。痩せた?」

「かなりね。それで、口の中はともかく、手足は、しばらくすると皮が剥けて来るんだよ。今のこの手も、その時に全部、新しくなった皮なんだけど、問題は、爪まで剥げちゃうんだよ。」

「えっ、……」

「付け根のところが浮いてきて、先端に向かってちょっとずつ。それが色んなところに引っかかって痛いから、爪切りでその浮いた付け根の方から切っていって、最後はぺりっと全部。」

 武知は飛び上がりそうな顔をした。

「どれくらいで生え変わるの、爪って?」

「半年かかった。その間は、一切ギターは弾けないよ。」

「恐いね、……気をつけないと、僕も。」

「いや、ほんとにそうだよ。俺も最初は、かなり絶望的な気分だったけど、もう腹を括るしかないから。こうなった以上は、また一からやり直そうと。しばらく、自分の演奏にしっくり来てなかったしね。」

「実際、どうなの? 大変だよね、取り戻すの?」

「それ以来、まだ一度もギターを触ってない。楽器のメンテナンスも、人に任せたままだよ。そんなつもりじゃなかったんだけど。……」

 武知は、言葉を失って、それをごまかすように、冷え始めた料理に箸をつけた。蒔野は、紹興酒のグラスに氷を足しながら、方々で話が弾んでいるテーブルを見渡した。

「もう、ギターは弾かないの?」

 ほど経て、武知は、蒔野の右手の爪が、一応は手入れされているのを見ながら、強張った面持ちで尋ねた。蒔野は、小首を傾げた。

「時々、ふと思い立って、ギターケースの前まで歩いて行くことはある。けど、そこで眺めてるだけ。手が伸びないんだよ、どうしても。」

「そう、……大変だろうけど、蒔ちゃんなら、また弾けるようになるよ。」

 蒔野は、淡々と語ってはいたが、急に目の焦点が曖昧になって、しばらくグラスの中の氷を見つめた。そして、曖昧に頷いて笑ってみせた。

第七章・彼方と傷/7=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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