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『マチネの終わりに』第六章(71)

 最後のメールを読み返して、彼女の心が、既に自分からは離れてしまっているのを感じた。

 なぜだろう?――蒔野はふと、実はあの晩、三谷の携帯電話に、何か洋子からメールが届いていたのではないかと思い、連絡して、迷惑メールフィルターまで確認してもらったが、何も届いてはいないとの返事だった。

 祖父江の緊急手術による予定の変更は、恐らく、洋子の心の変化の原因ではなかった。そのことを幾ら謝罪してみても、彼女の沈黙は、理由はそれじゃないと、首を横に振っているかのようだった。

 蒔野は一度だけ、洋子が彼に対して、金輪際忘れられないような厳しい表情をした時のことを思い返した。それは彼が、パリのレストランで、「地球のどこかで、洋子さんが死んだって聞いたら、俺も死ぬよ。」と告げた時だった。

 あの時洋子は、既に蒔野に好意を抱いていたはずだった。しかし、彼のその考えを、彼女は決して受け容れられないという態度で峻拒した。ほとんど、軽蔑の色さえ滲ませながら。

 蒔野は、彼女のそうした個性に憧れを抱いていた。そして今は、自分のした何か具体的な行為ではなく、自分という人間の存在そのものが、畢竟、彼女に拒絶されたのだと思うより他はなかった。この九カ月間、メールのやりとりをし、スカイプ越しに会話を続け、実際には四度だけ顔を合わせてみた結果として、彼女は自分を、結婚する相手ではなかったと結論するに至ったのだろう。

 それにしても、蒔野は出国直前のあの電話の口調から、たった一日で、これほどまでに彼女の態度が変わってしまったことを訝った。あの電話も、本当は何かもっと別のことを伝えようとしていたのだろうか? 東京とパリというその距離が失われてしまったことが、彼女の焦燥を俄かに掻き立てたのだろうか?……

『――何にせよ、それならそれで、一言説明すべきだろう? お互いにいい歳した大人なんだから。』

 蒔野はせめて、胸の裡で洋子を非難してみた。自分はむしろ腹を立てて当然なのだと考えたが、そういう気分には、どうしてもならなかった。


第六章・消失点/71=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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