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『マチネの終わりに』第七章(26)

 ケンが生まれたのは、リーマン・ブラザーズが破綻した翌日だった。その約二週間後に、ニューヨーク証券取引所のダウ平均株価は、史上最大の七百七十七ドルも下落することになる。

 リチャードは、出産に立ち会えなかったが、病院で洋子の傍らに横たわる、まだ名前もない赤ん坊と対面した時には、発作的な感激に、ほとんど打ちのめされたような面持ちで立ち尽くしていた。洋子は、ベッドからぼんやりと見上げたその彼の表情の複雑な陰影の真実味を、なんとなく愛おしく感じた。そして、涙を浮かべていた彼と微笑みを交わして抱擁した。

 子供は、ケンドリックと名づけられ、洋子自身は、いつも「健やか」という漢字を思い浮かべながらケンと呼んだ。

 洋子は、リチャードが家族に非常に愛されて育ったということを、彼のケンに対する態度を見ていて、つくづく感じた。おむつを替えたり、ミルクを飲ませたりと人並みに育児には協力的で、とりわけ、ベビーバスでの沐浴は自分の仕事だと任じていたが、それ以上に、父親として家族を守るという意識には、力むような拘りがあった。幼時に彼自身が経験した家庭環境を再現したいという強い思いがあり、母性愛に対しては、信仰に近いほど神聖視していた。それについて、洋子に異論があるとは、想像すらしていなかった。リチャードは、洋子の生い立ちを不遇だと思い込んで疑わず、優しく同情していた。

 リチャードの昔からの友人たちは、彼を「マザコン」だとよくからかっていたが、彼の母親にせよ姉のクレアにせよ、洋子には親切で、その限りに於いて、彼女も特に夫のそういう性質を気にしなかった。

 洋子はあの日、日本からフランスに戻った時に、空港にリチャードだけしか迎えに来ていなかったなら、あんな抱擁は交わしていなかったような気がした。自分の中に、クレアが弟を気遣うような家族愛への憧れがあったのは事実だった。そして、畢竟、リチャード自身が持っていたそうした雰囲気にも、あの時にはやはり安らぎを感じたのだった

第七章・彼方と傷/26=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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