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『マチネの終わりに』第九章(17)

 コンサート会場に洋子がいることに気がついたのは、第一部の最後の曲を弾き終わった時だった。予期せぬ喝采に、立ち上がって一礼しようとした時、彼は、一階席の奥の暗がりに彼女が座っているのを目にしたのだった。一瞬、時が止まったかのようにその場に立ち尽くしてしまった。そして、再び舞台に立った時、彼は最初に、彼女がそこいることを確かめたのだった。

 新しいバッハは、誰よりも彼女に聴いてほしかった。その喜びに満たされるとともに、五年前の夜、パリのアパルトマンで、ジャリーラのためにギターを弾いた時の記憶が蘇った。椅子に座ると、あの時の心境を胸に含んだまま、無伴奏チェロ組曲第一番の演奏に取りかかったのだった。……

 どこか遠くのパトカーのサイレンが、彼方の空に轟いて消えた。蒔野は、太陽の光の移ろいを感じ、少し足を早めた。彼は先ほどから、リルケの《ドゥイノの悲歌》のあの《幸福の硬貨》の一節を断片的に思い返していた。

「……私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか? そこでは、この世界では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、……彼らは、きっともう失敗しないでしょう、……再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たち……」

 深い緑色をした「あの池の辺り」に差し掛かると、蒔野は逸る気持ちと不安とで、ギターケースの持ち手を何度も握り直した。周囲を広く見渡しながら歩いた。池に沿ってゆったりと曲がった歩道を抜けたところで、視線の先の木陰に一つのベンチが見えた。

 彼はその場に足を止めた。午後の光が、時間潰しのように池の水面で戯れているのを眩しそうに眺めていた女性が一人、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

 蒔野は、彼女を見つめて微笑んだ。洋子も応じかけたが、今にも崩れてしまいそうになる表情を堪えるだけで精一杯だった。バッグを手に立ち上がると、改めて彼と向かい合った。蒔野は既に、彼女の方に歩き出していた。その姿が、彼女の瞳の中で大きくなってゆく。赤らんだ目で、洋子もようやく微笑んだ。二人が初めて出会い、笑顔を交わしたあの夜から、五年半の歳月が流れていた。

――完


第九章・マチネの終わりに/17=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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