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『マチネの終わりに』第七章(16)

 「この世界のリスクは、ますます複雑になって不可視化されてゆく。すごいスピードで。――それはそう。専門的な知識を持っている人と、そうじゃない人とは、酷く非対称な関係になってる。あなたたちが金融に詳しいのは、自分の人生の時間をそのために費やして、その知識を寡占しているからであって、あなたはじゃあ、あなたが一般の人に期待する金融工学についての知識と同程度の知識を、遺伝子組み換え食品や地球温暖化、中東の政治情勢について十分に持っているのかしら? 仮にあなたがそんなスーパーウーマンだとして、この社会の構成員全員がそうであるべきだなんて前提の政治理論は、最初から破綻してるでしょう? 抽象論じゃなくて、実際に面と向かって会話をする誰に対しても、債務担保証券について何も知らないからって批判できる? しかも、あんなに色んなものを混ぜ込んで、それを敢えて複雑化させて、不可視化させているっていうのに。」

「それはあなたの無知な誤解よ。騙すために複雑化してるんじゃないの。リスクの分散化のためよ、一言で言えば。でも、その中にはどうしたって、予測不可能なものが混ざり込まざるを得ないでしょう? だから、保険もかけるのよ。」

「原理はそうであったとしても、ローンを組ませる現場でも、売りさばく現場でも、明らかに一線を越えてるでしょう? ローンの支払いを始めてから、たった二カ月で遅延が相次ぐなんて、どう考えても、まともな契約じゃないと思うけど。」

 ヘレンは、さも可笑しそうに声を上げて笑った。

「あなたのご主人は――リチャードは、まさにその理論の研究者でしょう? そんな複雑な金融商品が出来たのも、それがAAAに格付けされたのも、ちゃんとした学術的な理論の根拠があってのことよ。あなたは、リチャードも、その“詐欺”の片棒を担いだなんて言って非難しているの? 彼は学者としての良心に背いてるのかしら? あなただって、彼が顧問を務めている銀行のお金で子供を養って、その人脈でこんな“一パーセント”の人たちと交際しているわけでしょう?


第七章・彼方と傷/16=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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