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『マチネの終わりに』第八章(25)

 確かに、蒔野のコンサートには、行くべきではないのかもしれなかった。そして、離婚前後から、また俄かに昂じていた蒔野への思いが、内から少しずつ、痛みへと転じてゆくのを感じた。

 ――ところが、この長い沈黙が、思いもかけない事態を齎した。

 早苗は、伏し目がちに口を噤んでいた洋子が、再び視線をもたげたのを機に、更に追い打ちを掛けるように、次のように言った。

「洋子さんには、何も悪いところはないんです。ただ、洋子さんとの関係が始まってから、蒔野は自分の音楽を見失ってたんです。」

 洋子は、その言葉を耳にするや、色を失った。そして、愕然とした面持ちで早苗を見つめた。これまで想像だにしなかった疑念が唐突に彼女の内に芽生えて、あの夜の記憶を、瞬く間に染め直していった。

 彼女の胸の裡では、この三年間、努めて忘れようとし、ようやく薄らぎつつあった蒔野からの別れの言葉が谺していた。

 ――あなたには、何も悪いところはありません。ただ、あなたとの関係が始まってから、僕は自分の音楽を見失ってしまっています。……

 しかし、そのメッセージを今読み上げるのは、蒔野の声ではなく、目の前にいる早苗の声だった。

 早苗は、洋子の異変に気づかないまま、

「またそうなってしまうのが怖いんです。……」

 と続けて、ようやく不審らしく口を噤んだ。そして、ハッとしたように口に手を宛てがいかけて、そのまま胸の前で曖昧に握った。

「――あなただったのね?」

 早苗は、動揺を隠すように唇を噛み締めた。

「あなたが、あのメールを書いたのね?」

 勿論、蒔野があとから、自分の書いたメールの内容を早苗に語ったのかもしれなかった。しかし、洋子はこの時、三年前に放たれ、なぜか行方知れずとなっていた真実の矢に、唐突に射貫かれたかのように、確信を以て、早苗に問い正した。

 何の話か、わからないふりをするのは、もう手遅れだった。早苗は、洋子の眼差しに射竦められ、あまりにも正直に、既にその表情で、自らの罪を認めてしまっていた。


第八章・真相/25=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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