見出し画像

『マチネの終わりに』第七章(4)

「それで、何の香水なんだって彼女を振り返って、ふと前を向いたらさ、目の前をおじさんが一人、歩いてるんだよ。――その人だったんだよ! 匂いの元は。」

 息を呑んで話に引き込まれていた一同は、ほとんど困惑したように失笑して顔を見合わせた。

「何の変哲もない、ものすごくリアリティのあるおじさんだったな、中肉中背の。髪は黒々としてるんだけど、てっぺんだけ禿げてて。改めて意識して嗅いでみると、やっぱり、その人なんだよ。妙にいい匂いで、見た目とのギャップが激しくて。何なのかな?」

「洗剤じゃないですか? 最近、香水みたいに匂いの強い洗剤、ありますよ。僕も飛行機で隣の席の人がそれで、一度、死にそうになったことがありますから。奥さんがそれで洗濯してるとか。」

「あー、洗剤か。なるほど。……ま、とにかくこっちはさ、彼女の存在よ、全身に染み渡れとばかりに香りを吸い込んでしまってたから、そのおじさんのワイシャツに汗が滲んで、皮下脂肪がたっぷりついた柔らかそうな背中を見てたら、気分が悪くなっちゃって。早くどっか新鮮な場所で深呼吸して、血中の酸素を総入れ替えしないとって、渡らなくてもいい信号まで渡って、……」

 蒔野は、ギタリストとしてのこの二年間の自分の不甲斐なさを、嫌と言うほど自覚していたので、大層な選評をして褒められたことに、忸怩たるものを感じた。それで話を逸らしたいのと、入賞者たちをリラックスさせるつもりとで、またつい馬鹿な話をし始めてしまったのだが、あまり達者じゃない英語だったせいもあって、思ったほどはウケなかった。

 丁度その、しんとなったタイミングを見計らったかのように、後ろから、「蒔ちゃん、」と日本語で声を掛けられた。

 振り返ると、水色のストライプのシャツを着た、痩身の男が立っている。旧知のギタリストの武知文昭(たけちふみあき)だった。蒔野は、ああ、と笑顔を見せて立ち上がった。

「久しぶり。二年ぶりくらいかな? 今着いたの?」


第七章・彼方と傷/4=平野啓一郎

#マチネの終わりに

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?