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『マチネの終わりに』第八章(47)

 ジュネーヴに発つ前に、洋子はロサンゼルスに住む父親のイェルコ・ソリッチに会いに行った。ケンが生まれた時に一度、顔を見せに連れて行き、その後、ニューヨークでも会っていたが、父がリチャードに好感を抱いていないことは、隠そうとしても何となく察せられた。

 宿泊先のサンタ・モニカのホテルで待ち合わせをして、近くのレストランまで歩いて移動した。洋子は、午前中、ビーチ沿いの遊歩道を一時間ほどジョギングして、そのあと、屋外のプールでも少し泳いでいた。西海岸にはほとんど馴染みがないが、プールサイドのベンチに横たわって、青空を背に椰子の木を見上げていると、結婚生活の場所がここだったなら、違った結果もあり得たのかもしれないと、現実感もないまま考えた。

 ソリッチは、パナマ帽に黒いシャツという昔ながらの出で立ちだったが、それが顎の全体を覆う髭に、よく似合っていた。顔色が良く、元気そうだったが、髪はとうとう完全に白くなっていた。オールバックに撫でつけて、耳より後ろでは、少し広がって肩に触れる程度にかかっている。

 洋子は母が、父の人柄や才能だけでなく、最初はむしろ容姿に惹かれたことを知っていた。一見、人を尻込みさせる恐いような顔立ちだったが、言葉を発すると、深い声とともに目尻に優しく皺が刻まれた。年齢を重ねるほどに魅力を増していたが、そう感じるのは、一緒に生活した記憶が乏しいだけに、実父であってもどこかで客観視してしまうせいか、それとも男の趣味が結局は母と似ているからなのか。洞察に富む目の表情は、映画監督とまでは直接結びつかずとも、何かしら思索を事とする職業であることを想像させた。

 寡黙なのは相変わらずだったが、その分、待ち合わせ場所で互いを見つけた時の、安堵したように広がる笑顔と、大きな仕草の抱擁が、別れたあとも、いつも際立った記憶として残った。

 明るいテラス席で昼食を摂りながら、洋子は、離婚に至る経緯やケンと一緒の長崎帰省、それに、今度、新しく勤務することとなったNGOのことなどを話した。ソリッチは、ふんふんと相槌を打って聴いていたが、彼女の仕事の内容については詳しく知りたがった。


第八章・真相/47=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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