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『マチネの終わりに』第九章(8)

 普段は震災関連の記事ばかりなので、些か唐突で、一体どういう人なのだろうと話題になった。理解者がいるということに、彼は慰められ、強く心に残ったが、それを書いているのが洋子だとは夢にも思わなかった。

 洋子もまた、自分の記事を蒔野本人が読んだかどうかは知らなかった。

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 蒔野の《無伴奏チェロ組曲全集》は、二〇一二年二月初めに発表された。洋子の愛聴した旧盤は、今でも雑誌のクラシック特集などで、この作品の〈必聴盤〉に挙げられる彼の代表作だが、その演奏を震災後に更新することに、彼は特別な意味を感じていた。

 録音はロンドンのアビイ・ロード・スタジオで三日がかりで行い、定評のあるポスト・プロダクションにもかなり細かく口を挟んだ。スタジオを選定したのはレコード会社で、ビートルズには思い入れがないものの、クラシックの録音でも有名なここでの作業を蒔野も楽しんだが、CDが発売されると、散々「あのアビイ・ロード・スタジオで録音!」と喧伝されて気恥ずかしくなった。

 アルバムの出来映えには満足していた。国内外で一斉発売され、不安だったが、評判は上々だった。「救われた。」といった普段は聞かない感想の言葉にも多く接した。取材では、彼自身の“スランプ”のことや子供の誕生のことなどを質問され、当然に震災の影響についても尋ねられたが、それにはただ心境を語る程度だった。一年は経ったものの、津波被害からの復興にせよ、原発事故の後始末にせよ、まだ進行中であり、あまりに規模も大きく、うまく言葉にならなかった。

 何を売るにも難しい時期だったが、蒔野にとって予想外だったのは、《レコード芸術》の〈特選盤〉となっただけでなく、フランスで最も権威のあるクラシック音楽専門誌《ディアパゾン》の金賞を受賞し、話題となったことだった。更には、CNNの震災特集番組の中で、地震直後の横浜でのコンサートとバッハのレコーディングの映像が流れたこと、ネット上に《この素晴らしき世界》の楽譜を掲載し、世界中のギター愛好家に公開レッスンをするという野田の企画が、ここに来てうまく行き始めたことなども手伝って、ビルボードのクラシック・チャートでも十位以内にランクインしたという連絡を受けた。


第九章・マチネの終わりに/8=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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