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かつて生んだ詩は、今に至る予兆。

誰かに預けた氣のする
懐かしさ探し回ってる
輝ける学生時代の
そんなものどこにもなかった

僕の青春はいつだって
ひとりぼっちだった

ほらごらんよ流れる雲
この青い空
そのうちなんとか
なるだろう・・・か

と、10代に創った詩、曲を
ふと思い出してしまいました。

恥ずかしいな。

でもしっかりと憶えてる。

がんばってたな・・・。


こんな詩を横浜の路上で歌ってた僕が
40代になって
大分の山里で
家族4人で暮らしている。

まぁ、なるべくしてなった
感じがしています。

「ひとりぼっちだった」なんて、
路上でみんなに向けて歌ってもねぇ(笑)

目が合ったら困ってしまうね。


先日書いた詩作の経緯で

10代の抒情詩、
自分が何を感じているかを言語化する作業を
想い出していました。

ボキャブラリーが足りない。そして
経験が足りない。というより、
真っ只中の氣持ちを歌おうとするから
俯瞰して描けないんだよね。

それは本当に仕方がない。
当たり前のことです。

だからこそ
足りないボキャブラリーで
ぶち当たって、
本氣で踊っていたんだなぁ・・と
今想う。

で、そんな「僕」だった僕が
今、変わったのかというと
何も変わってないんだなぁ

ただ、
「ひとりぼっちと想っていたんだね」と
今の僕は想う。

今の僕は
「ひとりぼっち」も描けるし、
「ひとりじゃない」とも描ける。

それは真っ只中にいた僕が
独りで、森にマイク立てて歌ったり、
夜中の小学校の非常階段に忍び込んで
カリンバ爪弾いて歌ってMDに録音して
初めて創った
「ひとりじゃない」
なんていうタイトルのCDアルバムを
20代になって創った
なんていう経緯、経験も経ての「今」だ。

だから、
あの頃があったから今があるんだよね。

マニアックなファン、友達が2〜3人出来たりしつつも、
ギョーカイ的な視点で話す人からは
「自己満足」をダメ出しされた。
「マスターベーションじゃないんだから」と。

彼らは今、どうしてるのかな?

あの頃出逢って、今も親しい友人からは
「CDをサランラップで包んで売っているのが衝撃的だった」
と、最近僕の第一印象を聞いた。

いや〜そうでした(笑)

あの頃はどうやってお店に並んでいる
立派なCDみたいに装飾すべきかわからなかったんだ。

まだダイソー行けば何でもあるって時代でもなかった。
CDをパッケージする袋がどこに売っているのかわからなかったんだ。

あの頃の時代の「ステイタス」に翻弄されつつも
時流に乗ることもできず、
むしろ照らし合わせて
自ずを分かつ「自分」を見つけて今に至るのかもしれない。

その後、歩いたり、自転車で旅したり、
自己を満たす生き方してきたもんな。

日本てどのくらい広くて、
どのくらい狭いんだろう?
と思い立って、
歩いてどこまで行けるだろう?と、
タイコとウクレレ担いで歩いた徒歩の旅。

見かけた神社に「一人じゃない」のCDを
奉納して歩く。という
なんとも自己満足な
「僕だけの経験」の旅だったな。

ひとりじゃない

*************

あの頃の僕に届けたくて
今も音楽をやっている。

あの頃の「僕」みたいな人に届けたくて
今も音楽をやっている。

あの時の僕が触れていた
かけがえのない響きを
今も響かせ、
今の僕自身をとおして、
その帯域が在り続けてくれるように
今も音楽をやっている。

「今」の時流を照らしてみると、
あの頃の時流は「絶対」ではなかった。

だから今の時流が「絶対」なんてこと
絶対ありえないんだ。

そんな諸行無常に
常にいる「僕」に
総てかかっているんだと、
身を引き締めて、
今日もレコーディング活動に
とりかかろうと想います。

*************

10代に創った詩でも
この「ビスケット」って曲は
最近も冬にふと歌いたくなる。

負け犬うろつく午後の昼下がり
太陽が眩しいぜ たいよう
ポケットん中に砕けたビスケット
拾ってくれたなら
分けてあげる

家を出たまま帰れない人
家から一歩も出られない人
みんなはそれぞれの空見上げてんだ
まるで何にもなかったみたいだね

かじかんだ手をあたためること

鳩の群れ 氣付かないけど
もう戦争は終わっていたんだよ
負け犬うろつく午後の昼下がり
もう戦争は終わっていたんだね

瓦礫の下でとり残されたような
北風がちょっと目に染みるような
負け犬の目に涙

見渡せば
何もない 何もない
花が咲くばかり

「負け犬うろつく午後の昼下がり
太陽が眩しいぜ
ポケットの中に砕けたビスケット
拾ってくれたなら
分けてあげる」

今は「分けてあげる」だけど
昔は「分けてやる」と
かなり挑発的に歌ってました。

ジャム、クラッシュ、ピストルズ。
初期のパンクが好きでした。

弱い負け犬が吠えている切なさが好きでした。

強固にジャンル化され権力を帯びる以前の
「パンク」「ロック」と名付けられない
何かの空気感が好きでした。

今、またあの頃の時代のように
混沌としている感じ。

この詩の風景、
横浜で初めての一人暮らし、
コンビニバイトの夜勤明けの景色を
想い出します。

1998年頃かな・・。
今想えば、あの頃つつまれた氣持ちが
今日に至る前兆のようにも感じます。

どんな時代になろうとも
僕はこんな帯域で生きるんだな。

何にも成らないことを
本質として、
かりそめの何かに成る技術を
生かして生きたいなぁ。

なんて想うのです。

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