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「多様性」という枠組みの中に収める社会

昨日の投稿後、

山の奥の奥まで行って、
民家がなくなり、
林道をしばらく行ったところで
タイコを叩き歌いました。

肚の底から歌う必要のない時代に想えます。

そんな時代なんて無かったかもしれないし、
ただ、年齢的なものかもしれないし、
路上へ行って歌うことを当然とし、
そこで何とか声が届くように
身体の使い方を勉強した、
当然の人生が特殊な人生となった、
特殊な人の学びだったのかもしれない。

大きな声で届ける必要があった。

様々な声の出し方を学んだ。

高い声も、低い声も、
しっかり出るようになった。

声が大きくても
「五月蝿い」と思われているだけだと
思い知った・・・。

10の潜在能力を持ち、
5のレベルでコントロールすべきと想った。

10あった筋力が
5に落ちてしまう現実を恐れた

が・・・

実際、暮らしていると、
「5」の声も要らなかったりする。

歌う必要もない人生もあるらしい。

実際、山の中や、路上でぽつんと歌っているより
こうしてnoteで
文章で伝えた方が、
多くの人に読んで、
届いたりしている。

でも、
やっぱり必要だと信じてしまうのです。

フィジカルに、スピリチュアルに
そう想うのです。

表情、筋力、想いのきりまで。

気持ち悪がられること
よくあります。

何を氣にして、
自分の人生を何に合わせようとしているんだ?
と想ってしまいます。

でも、
やっぱり、
ウケないから・・・。

ウクレレ弾いてた方が、
穏やかに振る舞っていた方が・・・。

受動的でいた方が
自分のタイプとしては向いている・・・。

自分の人生を
何に合わせようとしているんだろう?

山へ行き、タイコを叩き、
声を出し、調整する。

水の流れる音をメトロノームとする。

辺りの音、声を聴く。
歌う。
聴く耳が消える。

インプットからアウトプットへ。

また僕、調和壊しちゃった?

大丈夫。
そう、僕のこの小さな我儘な振る舞いも
この自然の一部なんだ。

氣にしないで大丈夫だよ。

時間を氣にする。

家族が起きて、学校へ送り出す時間には
帰らなければならない。

最終的にマイクとスマホを立てる。

画面の角度やマイクのレベルを調整する。

画面の枠の中に入って歌う。

「我、山登る。我、何処へ行く」

どこへ行きたいの?

何をしたいの?

歌の後半、
タイコのアタック音が
音量レベルのピークを越えて
レッドゲージを示していることに氣付く。

動揺する自分。

枠の中に収めなかったら
みんなに届けるための演奏が、
台無しになってしまう。

↑この矛盾を書きたかったのです。

何のために生きる?
純粋で在れたらいいよね。

音量を落として
コントロールすれば、
耳心地の好い音楽が届けられる。

若かった僕は
コントロールが出来ず、
コントロール出来る大人に憧れ、
コントロール出来ることが
成功の秘訣だと想った。

どこへ行きたい?

どこへ行きたかった?

「多様性が認められる社会」が
求められている。

「自分らしく生きる」ことを
尊重すべきだと想う。

多様性を認める人は誰ですか?

「認める」ために
新たな名詞を創り出し、
「LGBT」とか「統合失調症」とか呼んで、
新たな枠組みに収める。

ドレミファソラシドの記号に収める。

「分かる」ように「分ける」。

未知を概知へ変える。
すると飼えるようになる。

「多様性を認める」って
可笑しな言葉だと、
初めて氣づいた。

在るが儘で在れればいいな。
と想う。

在るが儘で在ればいい。
と想う。

枠に収まらない存在がある。

理解できない存在がある。

理を解こうとする僕がいる。

僕の外に何かが在る。

そこに触れて居たい。

そこを届けたい。

届けるためには、
枠の中に収めなくてはならない。

すると、
「独り」という
純粋を届けられる
「インターネットライブ配信て最高!」
と、先日言っていた僕が、

やっぱり、ライブで
本物の声と楽器の響きじゃないとな・・・

なんて想っちゃったりもするのです。

*************

次回のライブは
また西千葉のブックカフェ「平凡」さんで、8/3(水)。

住んでいる九州での予定はないので
また久留米の路上まで行こうかな。

チラシ作らなきゃなぁ・・・

枠組みを作らなきゃ(笑)

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