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最も選ぶに値する無意味を探す人と、意味を探す人

ランキングが大流行りだ
ネットもテレビもネタに困ればランキング
需要があるので成立する
なぜ人はランキングが気になるのか?
最も選ぶに値する無意味を血眼になって探しているからだ

ランキングとは他人の評価の総和
そこに自分の意思は入っていない
みんな自分の意思の置き場に困っている
何をどう評価すればいいのかわからない
選んだものが外れないように、他人の評価に乗っかるというわけだ

だが、他人にとって価値があるものが、自分にとって価値があるかどうかはわからない
しかしそこは考えない
他人に劣後するのだけは避けたい
損をしなければそれでいい
ただそれだけの理由
最初から意味はない
だから、最も選ぶに値する無意味を選ぼうと、ランキングが気になって仕方がない

そんなわけで人気の店は行列で、人気スポットで人は人ゴミと化す
みんな、最も選ぶに値する無意味を選んだ人たちだ

それは就職も同じこと
特にやりたいことがないのなら、最も楽で、最も見栄えの良い会社に入ればいい
そんなわけで教育は、最も選ぶに値する無意味を選ぶためのツールとなった

一方で、意味を探す人もいる
だが今の社会は、人生に意味を求めた時点で落伍者になるシステムがとられている
意味など考えずに、ランキング上位の企業にランキング上位の学生が入ればそれでいい
だから意味を探した結果、社会から弾かれ、無意味な仕事をすることになる
結局、無意味を選ぶことに帰するなら、最初から最も選ぶに値する無意味を選んでおけばよかった
そうやってランキングの呪縛は強固になる

しかし、それでも負けない奴もいる
落伍者と呼ばれようが、落伍者として扱われようが、それはそうしたい奴らの勝手
薔薇はどんな名前で呼ばれようが薔薇の香りがするように、自分がやることに意味があると思っている人間にとって、名前など記号に過ぎない
名前にこだわる奴らこそ、実体の無いただの記号なのだ

実体のある生活とは何か?
それは自分で創る生活だ
当然、店では食べない
何が入っているのかわからないし、最も大切なものだから自分で作る
テレビは見ない
大切な娯楽を人任せにしたら、人を笑わせることもできなくなる
トレーニングのマニュアルには従わない
それは他人が作ったマニュアルだから自分の体に合うわけではなし、体は日々違っている
同じことを二日続けてやるのは、想像力の怠慢だ
鍛錬は耐えることではなく、常に想像力の発露でなければ自分を変えることなどできない
耐えたところで、それは昨日の自分が続いているだけだ

そうやって自分の実体を持つ人間もいれば、何年生きても記号のままの人間もいる
記号が次の記号を生み、それを人が追いかけることで経済は回っていく
コスパ、タイパと効率で測れるものは全て実体がない記号だから圧縮できる
効率で測れないものこそ大切なものなのに、効率だけが重視される

自分で創ることには時間がかかる
今、時間は売りに出されているので、時間がかかるということは金がかかるということだ
それでも、この世界で実体と呼べるのは自分で創ったものだけだ
何もないなら自分で創るしかない

最初に創るべきもの
それは食事だ
肌艶の悪い、息の臭い哲学者には気をつけろ
奴らは砂漠の聖者
胃の悪い寝不足の奴の言うことは、欲情が知性に変装しただけの妬みにすぎない
自分の体を自分で責任を持って創れない限り、意味のあることはできない
精神は胃だから、この世界から自分を守ろうとするならば、まずは胃を守らねばならない

胃をやられると、まともに考えることができなくなる
血糖値の上がり下がりに右往左往されるだけの意識になる
そうなると意味を探すことは難しい
常に浅い呼吸のまま、無意味の流れに流される

今の世界は無意味の流れが物事を決める
民主主義と呼ばれているが、民主主義の主とは民ではなく、無意味の流れを決めている者だ
選挙で選ばれた羊より愚かな羊飼いではなく、無意味の流れを決めている者は別にいある

なぜその選択をしたのか?
全ての選択には理由がある
では、その理由は自分の理由だろうか?
結局は無意味に帰するのだからといって、最も選ぶに値する無意味を選んでいないだろうか?

自分のこだわりは強気だろうか弱気だろうか?
弱気な何かにこだわっているのなら、その弱気を吹き込んだのは誰だろう?

自分がたどり着いた意味というものが、笑いだすほど小さく偏屈なものであったとしても、自分で見つけたのなら、それは自分のものだ
無意味の中から選ぶことをしなかった、というだけで、それは戦ったということだ
ほとんどの人は自ら飼い慣らされにいく
無意味の中に自分を浸し、無意味と自分を同化させて楽になろうとする
それは確かに楽かもしれない
だが、楽しくはないだろう

自分の探した意味が他人にとって意味不明であるならば、それは意味を探し当てたということだ
他人に理解されるような意味は、所詮、他人のものだ
自分のものではない
共感で誤魔化すのではなく、自分の実感だけで判断しなければ、それは自分のものではない
共感で誤魔化して適当なことをやったら、そこでお終いだ

SNSは共感を求めるお終いの人間たちで溢れている
共感を求め共感を提供し、それを、繋がる、と呼んでいる
繋がりの先頭にいる人間が、繋がりの行き先を決めている
繋がっている人は繋がりの先頭にいる人の「数」となって、その繋がりの力となる
とても民主的な力である

だがそれは、別の無意味を選んだに過ぎない
自分で創ったものではない
そうやって「新しい無意味」が提供され、その中から最も選ぶに値する無意味を血眼になって探す

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