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むかしのこと


#私だけかもしれないレア体験

大学時代、1年間寮に入った。

もう40年も前のこと。
一人暮らしをする経済的余裕もなく、大学が運営する一番ランクの低い
木造平屋「さくら寮」に入寮した。

さくら寮は、大学構内の一番奥にあった。
大学は昔、米軍基地だったこともあり、
四方八方が有刺鉄線で囲まれていて
さくら寮は、米軍病院だった。

入寮者は1年生12人、2年生12人だった。
部屋は、1年生と2年生の2人部屋。
1部屋8畳くらいだったか。
木造の2段ベッドがあり、それぞれがカーテンで仕切られていた。

窓は、木枠。
古いせいで、閉まりが悪く、きちんと閉められる箇所は少なかった。

冬になると、半纏が必需品だった。
中には、半纏を重ね着する者もいた。
暖房器具は何だったか。思い出そうとするが出てこない。
たぶん、なかったのだと思う。

トイレ棟は渡り廊下で繋がっていた。トイレの他に、洗面所。
木枠窓に、コンクリートの床だった。
就寝前の歯磨きは、にぎやかだったが
それ以降の時間は、一人では行けなかった。
病棟で亡くなった人の霊が出ると代々語り継がれていたから。

門限は、平日21:00 休日22:00。
21:00までに、学食で夕飯を、そして他の寮生との共同浴場で入浴を済ませなければならなかった。

寮には黒電話が1台あり、19:00から21:00まで当番がいて
家族からの外線があると、放送で呼び出し、繋いでくれた。
通話時間には10分くらいの制限があったと思う。
すぐ近くにいる当番を意識しながらの通話だった。
携帯電話もなかった時代。
”兄弟”を装い電話してくる彼氏もいた。

21:00から1時間は静粛時間。
全員が部屋で静かに過ごす時間。
この静粛時間がヤバかった。
えんぴつ一つ、床に落とせない。
スッキリするくしゃみ一つできない。
声を出すことなんて、もってのほか。
ちょっとでも、物音を立てようものなら、廊下を行ったり来たりして監視している当番がドアをノックする。
「今は、静粛時間です。静かにしてください。今月2回目の注意ですから、来月1か月、庭掃除です」
聞こえてくるその声に、他の住人たちは身が引き締まった。

当番は持ち回りだったが、どういうわけか、みんな真面目に役割に徹していた。
忖度はなかった。

22:00から就寝前の歯磨き
22:30消灯
それ以降も起きている者は、自分のベッドで灯りをつけて過ごすした。

ペナルティの庭掃除は、朝5時から。
ペナルティ以外にも当番制の掃除があった。
一番苦痛だったのは、廊下。
上履きはスリッパだったが、どうしても廊下に黒い汚れができてしまう。
片手にたわし、片手に雑巾を持ち、
長い廊下を、たわしでこすっては、雑巾で拭くという作業を黙々と
朝の5時から行った。

各部屋にテレビを置くことは禁じられていて
共有の談話スペースに1台置かれていた。
寮生以外の友達との面会も、そこだった。

寮を管理するのは、寮母。
さくら寮の寮母は、女子大の卒業生だった。
玄関に一番近い場所に、寮母の部屋はあり
誰も足を踏み入れたことのない、秘密の場所だった。

そんな寮生活で、体育会入っているのは、私だけだった。
練習は、21:00まで。寮はすでに門限の時刻。
食事も入浴も、その時間までには到底済ますことができないため、
時間外届を提出した。
私の夕食は、寮の友人がテイクアウトしてくれていたものを静粛時間中に
静かに食べた。
入浴も静粛時間に、一人静かに浴場でシャワーを浴びた。

学校生活と寮生活、そして体育会活動。
慣れない生活で、心身ともに疲れていた。
練習を終えて、一人グランドから寮へ向かう道すがら
グランド脇の側溝にでも
身を隠して消えてしまいたいと思っていた。
側溝にすっぽりはまっている私を、明朝誰が一番に気づいてくれるのだろうとぼんやり考えることがあった。

入学して2か月後、とうとう私は脱水症状と栄養失調で倒れてしまった。
高熱が下がらず、口に入れることができるのは、牛乳のみ。
いつも厳しい寮母が、何かあったら私の部屋をノックしなさい
と言葉をかけてくれた。

間もなく私は、実家に強制送還され、1か月休学した。

そんな寮生活だったが、次第に慣れてきた。
寮生は、全国から来ていた。
新潟、栃木、静岡、山梨、宮城、佐賀、熊本・・・。
学部もさまざま。方言もさまざま。
お互いの部屋に行き来し、同級生はもちろんだが、先輩ともよく話をした。

年に何回か忘れてしまったが、レクリエーション大会もあった。
2年生がじっくり時間をかけて企画を練ってくれた。
お菓子やケーキも準備して
みんなでワイワイ、ゲームをして楽しんだ。
クイズ大会で決勝まで残り、
「準ミスさくら」になった。
頬に口紅を塗られている、二人羽織りの写真がアルバムに残っている。

一日に夕飯を2回食べたのがバレて、寮母に叱られた。
門限わずか数分超過で、庭掃除の常連になった友人もいた。
寮に入り、先輩や友人ができたことで、他のクラスメイトより
早い時期から大学生活に馴染むことができた。

いつしか寮が落ち着ける場所になっていた。

秋になると思い出す光景がある。
午後の授業が突然休講になった晩秋の日。
部活までの時間、寮に戻り、布団に潜り込んだ。
ベッドから覗いた壁には、窓から差し込んだ西陽が
窓枠を映し出していた。
あたたかな光の映写。
目まぐるしい日々の、ときが止まった瞬間。

まどろみの中で、薄れゆく意識
安らぎに、満たされた時間だった。

世間から切り離された、今の時代には考えられないような集団生活だったが
住めば都。
先輩たちが2年目も残留した気持ちも理解できるようになっていた。
そんな矢先だった。

突然、さくら寮の閉寮が決まった。
入寮希望者が激減したことが理由だった。

さくら寮は、私たちが退寮を終えた次の日から
運動部の部室になった。

昨日まで
朝の5時からみんなで磨いていた床は、土足で踏み込まれ
毎日、大事に手入れをしてきた木造平屋は
「古くて汚い部室」に変身してしまった。
私たちが、泣いたり笑ったり
一生懸命毎日を過ごしていたさくら寮は、命を失ったように廃れてしまった。

今も思い出すのは、ベッドから見た晩秋の日のまどろんだ光景と
半纏を着込んだみんなの笑顔。

たいちゃんは、個性的でおしゃれだった。松本出身で、「そうずら~」が口癖。門限破りの常習犯。
いたちゃんの出身は十日町。実家はお菓子店。製菓専門学校へ進学した弟が継ぐと言っていた。半纏が一番似合っていた。
あっこは、山梨出身。信玄餅は、外包のビニールに中身を出し、その上から黒蜜をかけ、ビニールの上から手で揉み黒蜜を馴染ませてしてから食べることをレクチャーしてくれた。我が家は今も順守している。
せんちゃんは、熊本出身。親分肌で、豪快だった。ときどき実家から送ってきた大型ミカン「晩白柚」とイメージは重なっている。
みよこは浜松。背の高い美人で、慌てないおっとりした性格だった。ちょっとした嘘でも、簡単に信じてしまうため、いつもからかわれていた。
はがちゃんは、六日町出身。多趣味で行動派。寮を出たあと、ニューヨークへ一人旅。セントラルパークの木陰で読書する姿がニューヨークタイムズに掲載された。
ゆきは佐賀。裏表なく、豪快。「なんばしとっとー」とよく言っていた。
九州のおなごは、豪快さが似ていた。
おのちゃんは、私と同じ出身地。どんな話でも一人楽しそうに話していたのが印象的。
美恵子は新潟。一つお姉さん。一人暮らしを始めたら、すぐに同棲した。やっぱり一つお姉さん。
つるちゃんは、東京都福生市。だけど寮に入っていた。物静かで優しく、それでいて、破天荒なたいちゃんとよくつるんでいた。

卒業後、大学はどんどん建て替えが進み
すっかり首都圏の女子大に姿を変えた。
大学周辺も都市開発が進み
米軍病院だった名残は微塵もない。

半纏を着た女子大生の話など
もはや「おとぎ話」である。






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