「シャチョー」の響きだけで憧れを持っていた私の経歴#2

繋がりを持ってくれた人が、少しでも私という人物に関心を持ってくれた時にバックボーンが伝わるように本記事を書きました。

幼少期~学生時代

小学生の時から「シャチョーになる」と口癖のように言っていました。文集にも書いた記憶があります。
それか大型建築作業者の運転手。工事現場に忍び込んでショベルカーのエンジンをかけてちょっとだけ動かしたことがあるのはここだけの話。
今思えば、雇われ経営者をしていた父の影響を受けていたんだと思います。

中学に上がると、何の社長になるかと考えはじめました。
漠然と大好きな沖縄のために役立つ仕事がしたいと思っていました。
テレビの中の都会はあんなにキラキラしているのに、周りを見ると金持ちが全然いない。唯一の金持ちは軍用地収入で財を成した人たち。自分は外貨を稼ぐ仕事を作り出したいと思っていました。
でも、沖縄には資源も土地もありません。なので、製造業や小売業で大企業にすることは、県内では難しいだろうと気付きました。
そんなことを考えていたのは1998年頃。ちょうどITバブルの兆しが見えていた時期です。
「ITなら資源も土地もいらない!何かできるかも!」そう単純に思い立ったのが中学1年の頃でした。

勉強は嫌いでも苦手な方でもなかったですが、夢が固まってからは学校の授業が「つまらなく」は感じるようになりました。
何に役立つのかもわからない勉強のための勉強。理数系だけは単純に面白いと思っていました。
今となっては、地理や歴史もとても重要なことと理解していますが、もっと子供の興味を引き出すような面白い授業のやり方があったんじゃないかと思います。(教育分野にも興味を持ち始めたきっかけです)
小学校からやっていたバスケットボールも辞めてしまい、特に打ち込めるものもない悶々とした中学時代でした。

高校に上がってからは、エクセルやワードくらいは使えるくらいにならなきゃとパソコン教室に通い、マイクロソフトの検定とシスアド初級は取りました。当時はまだパソコン教室も高かった記憶があります。やりたいことをやらせてくれていた親には感謝しています。

高校2年生の時にビリヤードと出会い、これが人生を大きく変えるきっかけになりました。
弁当代を貯めて、授業を抜け出したり、お金と時間をビリヤードにつぎ込んでいました。(この時にプログラミングを身につけておけばまた違う人生だったかもしれません。。。)

この頃から皆が楽しめるイベントを開くのが好きで、卒業式直前には友達と非公式のバレーボール大会を企画しました。
14クラスをひとクラスずつ説得し、部活顧問を回って体育館を空けてもらい、進行はバレー部にお願いしました。
非公式にも関わらず、ほぼ全員500名以上が参加し、前例のない大会を成功させました。

学園祭のステージでは、1,000人以上の全校生徒の前で漫才をやってスベリ倒すという苦い思い出もできました。
良い意味で捉えるなら、人前で大失敗をしても、本人が気にするほど誰も覚えていないということを知ることができました。
でも、スベったことだけはどうしても心残りで、友達が開いた100名ほどのお笑い&音楽ライブに出させてもらいました。
別の相方とコンビを組んで、ぼちぼちの笑いは取れたので、汚名返上ということにしておきました。

ビリヤードにハマったせいで、大学受験勉強が嫌で、東京の三流大学に指定校推薦で入りました。
思いっきりの理系大学で、付き合ったことのない人種ばかりで入学当初は寮の部屋に引きこもっていました。
初めてできた寮の友達の部屋はフィギュアでいっぱいでした。

徐々に東京生活に慣れ始めてからは、ビリヤードでサークルを立ち上げたり、関東の学生組織を作ったり、スポンサーを集めて学生全国大会を開いたり、ビリヤード一辺倒でした。学園祭では徹夜してアイスクレープ屋を開き、初回出店で過去最高売り上げを達成しました。

それに加えて、イベントディレクションのバイトがかなり良い経験になりました。
関東中の電気屋さんでプロジェクターやプリンターを売ったり、キャンギャルと一緒に新商品サンプルを路上配布したりしました。
群馬県の電気屋さんに土日入る予定が初日の挨拶のやり方が悪かったという理由だけで翌日来なくていいと言われたり、東京駅近くの路地に迷い込んで空きビンの入ったビールケースをなぎ倒したり、色んな失敗を経験しました。
このバイトで、東京では青信号になって2秒後にクラクションが鳴らされることを知りました。

あと、中学の時に辞めてしまったバスケが心残りで、弱小バスケ部でレギュラーにもなれないのに一生懸命練習したりもしました。

寝る間を惜しんで遊びまくるという、夢とはかけ離れた大学時代でしたが、これらの経験が今の自分の芯にもなっています。

新卒後に入社したIT企業

当時の就活は売り手市場で、大手企業含めて何社か内定を頂けました。
面白いことに、勉強以外の学外の活動が人事担当にウケました。
どこの面接でも、ビリヤードやバイトの話ばかりで盛り上がり、授業の内容や研究内容なんてほとんど聞かれませんでした。
そんな中、若手でも活躍できる場があるというブラックの匂いがプンプンするIT企業を選択しました。

結果からいうと、この会社を選んだことは自分にとっては大正解でした。
一週間家に帰らなかったり、職場に寝袋があることが幸せだったり、トイレで寝落ちして1時間ほど経つような生活です。
新人の時はポンコツで、何度も現場を飛ばされ、何もできない悔しさを味わいました。

でも、やる気と実力があればいくらでもポジションを用意してもらえる会社でした。
採用手伝い、新人教育、30名以上のチーム運営、業務効率改善専任チーム、ユーザーと直接進める上流工程なども経験しました。
20代前半で50代を含むメンバーを持ち、クライアントと喧嘩しながらデスマーチをするなんて、大手ITベンダーでもなかなか経験できないのではないでしょうか。

たった6年間で、地銀、大手銀行、大手保険会社、流通業、様々な分野の仕事と関われたのはIT企業の醍醐味だと思います。
あの時くらい働けば、たいていの仕事はこなせるという変な自信もついてしまっています。

ただ、クライアントの「言われたものを作る」仕事に疑問も持ち始めていました。プロジェクトが燃えては消し、燃えては消しの一生繰り返しのように感じました。
会社の中や業界の中だけでいえばやりがいもありましたが、社会的には私たちの仕事って何なんだろうと。
システム開発をしても直接ユーザーさんが喜ぶ顔が見れるわけでもないですし、将来子供にこの背中をなんと説明しようかとぼんやりと考える日々が続きました。

この頃は30歳までボロボロになるまで働き、35歳まで大企業を経験し、その後に沖縄で起業するという計画でした。

沖縄へ帰る

そんな時に当時同棲していた彼女と結婚を決めました。
スキルも人脈もないのに、漠然と「シャチョーになる」ことを快諾してくれた物好きな人に巡り合えました。
両家顔合わせの数日後に妊娠も判明し、沖縄に帰ることを決めました。

元々計画していたこととは多少ズレが生じたものの、この年は結婚、出産、帰省、初めての転職と人生の大きな転換期となりました。

ちょうど父が立ち上げた会社が3期目くらいの頃でした。
私の経験と事業内容は全くの畑違いでしたが、沖縄の経済振興という理念は、私の夢と一致していたため、この会社を継ぐことにしました。

それから数年後、こうして私は「シャチョー」になりました。

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