一次創作『暑さ寒さも』

 戦国小説、久しぶりに市姫と帰蝶を書きました。暑かったしねえ…
 23回目の誕生日に寄せて。時間的には『帰蝶と市』『市と帰蝶』のすぐ後くらいです。
 ちょっとだけ説明をば。
 桜崎は、織田信長正室帰蝶(濃姫)、お市の方(浅井長政継室、柴田勝家正室)、茶々(豊臣秀吉側室)、千姫(豊臣秀頼正室、本田忠刻正室)を主人公に、一つの世界観を短編として描いて来ました。
 書いている順で時間軸はけっこうばらばらなのですが、およそ「どのあたり」と注釈はつけています。よろしければ他の作品もブログにてお読みください。また、桜崎は山岡荘八氏著『織田信長』全5巻をバイブルにしております。
 前置きが長くて申し訳ない。読みたい方はスクロールにて。
























『暑さも寒さも』

 彼岸までとはよく云うが、今年の暑さはどうしたことだろう。せめて見た目だけでも涼しげにとも思うのだが、暦を見るとまだそのような時期ではない、と、織田上総介信長正室の帰蝶は暑さをぐっと堪えた。
 女主人が文月に入ってまもないのにもう腰巻き姿とは、とも思うし、やはり急な来客に打ち掛けは欠かせない。
 一方で、女主人がある程度着崩さなくては、自分に使える侍女たちも暑さを逃す装いはできまいと思ったり。
「義姉上、市でございます」
 朝も早うから、信長の末妹市が帰蝶の居室を訪れたときは、慌てて彼女に風を送る係をおき、扇で風を送らせた。なにしろまだ幼いのである。急な暑さで体調を崩しては大変だ。襖を開けたとて、通り抜ける風もまた緩い。
「ここ数日で急に季節が変わったかのようじゃ。市は大事ないか」
 夫の末妹を実の妹のように扱うのは、帰蝶にとってはまだ慣れない。つい先日まで互いに「市姫様」「帰蝶様」と呼び合い、雛遊びに双六にと,まるで仲の良い友達のように遊んでいたからだ。
 ぬるま湯に浸かったような、でもそれなりに楽しかった世界をぶちこわしたのは、市之町系、織田上総介信長である。全て真実をばらしてしまったのだから、というか真実をバラす前に心の準備はさせて欲しかった。帰蝶と市の一致した意見である。
(兄上があたしたちの間に爆弾をぶっこまなければ、このようなことにはならなかったのに!)
 と、市が現代の日本に住んでいれば、兄を恐れることなく堂々と言ったのだろうが。あいにく市が生きているのは1500年代中盤であるし、当然『爆弾』の何たるかも知らない。
 いろいろあったものの、今後は義姉と妹としてより親しくできる、それは大変よいことだと市は結論づけた。自分にどのように都合がよいか、それは今まで通り帰蝶と親しくすることであるし、むしろもっと親しくなることを市は望んでいるのだから、細かいことはもはやどうでもいい(と、市が妙に論理的に考えていることを、帰蝶は当然知る由もなかったのだが)。
「はい、市は小袖を新しゅうしていただきました。この反物を御方様からいただきましたと聞き、急ぎ御礼言上に参上した次第にこざいます」
 しずしずと居室に入ってくるなり丁寧に一礼をして、自分の問いかけに対するこの口上。市の立派な挨拶に、帰蝶は思わず目を丸くした。いつもの市と違いすぎるのだ。そんな帰蝶を見て、市も堪えきれずに吹き出した。
「からかいましたな、市」
 そういうわけではありませぬ、市は堪えきれない笑いを何とか抑えて、ことばを継いだ。
「わたくしの好きなお色と柄を選んでくださったのは大層嬉しゅうございますが、」
 ここで市は一旦ことばを切る。そしてわざとらしく咳払いなどすると、
「義姉上、市のことだけでなく、どうぞ兄上のことも構ってあげてくださいませ。兄上は義姉上のことがそれはそれは、本当に好きなのでございますから」
 普段であればそこで市と二人で笑い合うところなのだが、今日の帰蝶はそうはいかなかった。
 二人のために冷たい茶を運んできてくれた類(信長の側室の一人で、生駒家の娘である。信長はさしあたり彼女を那古野城に上げたが、他にも吉田内記の娘奈々と、できれば帰蝶の侍女である雪を側室にしたいと考えている)の手が、茶を置くときに些か震えたのを見てしまったからである。
「皆、殿のことは好きでござろう。ただ、おのことおなごでは思うところが違うかもしれぬし、おなごの中でも市とわたくしとではまた、思うところが違う。殿のお考えは、殿にしかわからぬ」
 帰蝶のことばに、まだ城にあがってまもない類はあからさまにほっとした表情を見せ(あとで各務野の説教が待ってていることだろう)、市は超超不満そうだ。
「だが、市の願いはしかとわかった。殿にも新しい小袖をご用意いたそう…各務野、あれを」
 帰蝶が命じると,各務野は(よろしいのですか?)と視線だけで帰蝶に問いかけてきた。先ほどの類の振る舞いについてである。
(よい。城に来てまだ間もない、せっかくだから気晴らしでもしてくるように伝えよ。暑さには十分気をつけるようにとも)
 これだけの長い指示が視線だけで伝わるのは、やはり各務野が、帰蝶が美濃に住んでいるときからの侍女だからであろうか。各務野は、自分が帰蝶に命じられたものを取りにいくときに、さりげなく類も退がらせた。
 そうして各務野が持って来たのは、新しい、青藍の小袖だった。麻でできているため、色合いも相まって見た目も実用的にも涼しい。普段小袖一枚で野山を駆け回ることの多い信長のことを考えて工夫を凝らし、動きやすさを担保している。
「すばらしいではないですか…!」
 両手を口で覆って感激する市に、
「御方様は幼き頃より裁縫がお好きで。姫様の小袖も、御方様が仕立てられたのですよ」
 と各務野がさりげなく言った。そのことばに市はますます目を丸くし、帰蝶はやや項垂れた。
「恥ずかしいから言うなと申しておったのに…。市姫様に着せるものじゃ、わたくしが仕立てたと,わざわざ言わずともよかったであろうに…」
「いいえ、こうでもしませんと、姫様はご自分のなさったことを隠して、なかったこととしてしまわれますから。何度大層よくおできになられましたと言ってもお聞きにはなりませんし、なにしろ大切な市姫様の小袖を姫様が仕立てられ、それを当の市姫様が知らないままというのも、」
「市は嬉しゅうございます!」
 各務野のことばにかぶせるように、市は勢い込んで言った。
「よう教えてくれた各務野。義姉上が仕立ててくださったと後で人づたえに聞いたら、きっとわたくしはかなしかったであろう。今日この場で聞けたことに,価値があったのじゃ」
 市はすっと立ち上がる。姿勢のよい立ち姿。そろそろ子どもから大人へ変わってゆく体の線。それにぴったり沿うように誂えられた小袖。市はくるりと、その場でゆっくりと回ってみせた。ほう、と周囲の侍女たちからため息が漏れる。
 小袖は、市の年齢には少し大人びた仕立てで、色は白藤色。丈もすこし長めに作られ、大人のそれに似せてある。成長期の子どもである市ため、、多少背が伸びても調整できるように工夫もなされていた。見事な誂えである。
「義姉上、わたくし、父上や兄上方に小袖が仕立てられるようになりたいです!ぜひ御指南くださいませ」
 市のきらきらした瞳に、帰蝶は笑顔でゆったりと頷いた。
「今日はほんに暑い日じゃ。外遊びはやめて、中でお仕立ての仕方をいたしましょうか」
 帰蝶のことばを受けて、侍女たちは夏用の着物を仕立てるために取っておいた反物をいくつか並べ始めた。市は一つひとつを丁寧に吟味し、自分の上に当てたり、日に透かしたりしながら、「これは父上に…」「これは勘十郎兄上にいかがであろうか…」と反物を選んでいく。
 帰蝶はもう一枚市に小袖をと思ったとき、先年嫁いでいったもう一人の妹、犬にも小袖を仕立てて送ってやろうと思う。
「わたくしももう一枚、今度はお犬の方様と市とで揃いの小袖を仕立てようと思う故、市もともに」
 帰蝶が誘うと、市は花のように笑って頷いた。


 夕方、信長がよく冷えたウリを持って帰ってくる頃までには、市は手習とはとても思えぬ見事な出来栄えの手ぬぐいを兄信長に手渡した。
「これは将来有望じゃ。父上や勘十郎の小袖が終わったら、儂も仕立ててほしいものじゃ」
 兄の返事に違和感を覚えた市が黒尾を傾げると,信長は自分の体を見回しながら満足げに頷いた。
「今年一枚めの新しい小袖は、濃が仕立ててくれた」
 新しい小袖がよほど嬉しかったのだろう。信長はしみじみそう言うと、ふいにいたずらっぽい表情を見せた。
「なにしろ濃の仕立ては大層よくてな。しばらくは十分じゃ。それに儂の着物をおなごが仕立てると,いくら市が妹とはいえ、濃がやきもちを焼きそうじゃ」
「そんなことはございませぬ!」
 軽口を叩き合う兄と義姉が、いつになく楽しそうで。思わず声を立てて笑ってしまった市であった。
「ようお似合いです、兄上」
「そうであろう。濃の仕立てである故な」
 兄はきちんと、義姉のことを大切に思っているのである。市の顔に、思わず笑顔が浮かぶ。


 まだ市と帰蝶が「姉妹」となってもまもない頃、とんでもなく暑い文月の夕方のことであった。

(終)

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