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カーペンターズ「シング」「ナウ・アンド・ゼン〜今、そしてあの頃」が人生に及ぼしたもの

11歳の自分がポップ音楽を積極的に聴くこと原体験になったカーペンターズを改めて聴き直しそして調べ直すと本当に興味深い事実を知ることになります。カーペンターズについての詳細な作品評伝をリチャード・カーペンター自身が昨年発表しておりKindleで読もうかなと思ったのですが写真や画像などの資料性も高いようなので洋書で買うことにしました。ただいま英国よりシッピング中、到着を楽しみにしています。今回改めて確認できた70年代初頭のカーペンターズは最先端のポップスをプロデュースするスキルを独自で開発していたというファクトは驚くべきばかりですが皆さまにも好評なようなのでさらにそれを裏付ける記事が書けるよう頑張りたいと思います。

1970年「遥かなる影」、1971年「スーパースター」(当時の邦題、原題は「Capenters」)、1972年「トップ・オブ・ザ・ワールド」(これも当時の邦題、原題は「A SONG FOR YOU」)を全てヒットさせシングルも8枚連続でゴールド達成と恐らく世界で最も売れるアーティストに成長したカーペンターズ。グラミー賞も獲得し全米はもちろんイギリスやヨーロッパ、そして日本やオーストラリアでもコンサートを開くことが出来て、当時のニクソン大統領にも呼ばれてホワイトハウスで演奏するなど正にアメリカの若者を代表するスーパースターになったのでした。

再び自分が11歳の頃の話に戻りたいと思います。「シング」がどうしても聴きたかった私は父親にせがんで当時住んでいたマンションの下の階にあったレコードショップでついにカーペンターズのアルバムを買ってもらいます。父親はそれまでのヒット曲がいっぱい入っているベスト盤〜日本編集の「カーペンターズ・ゴールド」的なアルバムが出ていた〜を選ぼうとしていたのですが、「シング」がどうしても聴きたかった私は「シング」が入っている最新アルバムをせがんだことを憶えています。それが1973年発売のカーペンターズの5枚目のアルバム「ナウ・アンド・ゼン〜今、そしてあの頃」でした。

ジャケットの美しい赤い車とその後ろに映っているのは当時のリチャードとカレンの住んでいたカリフォルニア州ダウニーに建てた2棟のアパートで現在もまだ建っている「カーペンターズファンの聖地」だそうです。そしてこのジャケットカバーは写真だとばっかり思っていましたが、日本人イラストレーター、長岡秀星さんによるイラストなのです。この時のエピソードがこちらで紹介されています。

このアルバムが大ヒットしこのジャケットを手掛けた「デザイン・マル」って何者だ!ということで長岡秀星さんに一気に注目を集める事になったようです。

カーペンターズ兄妹が育ったカリフォルニア州のダウニー市も典型的なアメリカ西海岸の郊外な街だったようですが一家が暮らした家の他にも「最古のマクドナルド店舗」「タコベル1号店」があったりするそうで中々興味深いです。カーペンターズ以外の著名人はアル・ヤンビコックメタリカのジェイムズ・ヘッドフィールドもこの街の出身だそうです。

アルバムの1曲目「Sing」を聴くと今でも初めてこの曲を聴いて「この曲は世界で一番いい曲に違いない」と確信しめちゃくちゃな英語で一緒に歌っていた子供の頃の気持ちが蘇るようです。リコーダー、ハープ、木管楽器、アコピとエレピ、次々と入れ替わる様々な楽器とコーラスワークを駆使し立体的なサウンドを作り上げるリチャード・カーペンターのアレンジ手法はここでも冴え渡り、子供向け番組「セサミストリート」の曲を見事にカーペンターズ・サウンドに仕上げています。この曲はカーペンターズ公式のMVは見当たらなかったのですが歌詞付きの日本盤シングルジャケのアートトラック動画を共有します。

この動画の再生数の山場を確認すると子供の頃にいいなと思った箇所〜’0”53や'1"55のテンションコードの多層コーラスのパートに山場が来ていて他の方も同じ箇所が好きなんだなと妙に納得します。
また「シング」は1974年の日本武道館公演でのカレンがひばり合唱団とともに日本語で歌う動画と

セサミストリートでのオリジナル歌唱〜「シング」とスペイン語の「カンタ」の両方バージョンと1989年に亡くなったセサミストリートの専属の作曲家であったジョー・ラポソに捧げたオールスターキャストものも共有しておきます。原曲も素晴らしい曲だったのですね!


2曲目の「This Masquerade」は子供の頃はちょっと苦手でした。この曲の中に潜む”黒さ”に関する受容性が11歳の頃には出来ていなかったのだと思います。同時期に父が聴いていたCTI系やフィリー・ソウル的な音楽も当時の自分の耳には受け入れられない「音の塊」があることを感じていました。いつの日かそれが”ブルーノート”と呼ばれるものだったことが分かる日が来るのですがそれについてはまたいずれ書きたいと思います。それでも切々と歌うカレンの歌声やリチャードの華麗なピアノ・ソロに続いて出てくるフルート・ソロで急に明るいムードになるところなどをだんだん好きになってきたものです。今改めて聴くとレオン・ラッセルの楽曲を取り上げることはカーペンターズなりの黒人音楽への回答のようなものを感じます。また数年後に高校生になりジャズやフュージョンを聴き始めた頃、ジョージ・ベンソンのこの曲をカバーを聴いた時、何故か「カーペンターズの名唱があるのになんで今さらこの曲をカバーするのか」と思ったりもしました。聞きかじり高校生のイキった思い込みですがそれほどカレン・カーペンターのこの曲でのメランコリックなヴォーカルの完成度は凄かったのだと思います。

3曲目の「Heather」はこれまでリチャードのオリジナルかと思っていましたがイギリスのイージーリスニング系の音楽家、ジョニー・ピアソンのカバーだったのですね。わりと原曲に近いアレンジでなぜリチャードがイージーリスニングまんまのインストゥルメンタル曲を入れてきたのは謎ではありますが、カーペンターズのバージョンはオーボエを巧みに使っています。

4曲目「Jambalaya」は1953年に急死したカントリー界の大スター、ハンク・ウィリアムズの曲をカバー、前作での「TOP OF THE WORLD」がカントリー歌手、リン・アンダーソンにカバーされてカントリーチャートで2位になったこともありカントリー路線の楽曲が選ばれたものと思われます。そしてカーペンターズ自身も「トップ・オブ・ザ・ワールド」を急遽シングルカットしこれが彼らにとって2曲目の全米1位シングルになりました。そしてこの「ジャンバラヤ」もアレンジを加えてシングルとしてリカットされるのですが、このカントリー/オールディーズ路線の採用はカーペンターズのその後の活動に予想外の影響を及ぼすことになったのでは無いかと個人的には思っています。ちなみにですが1974年英国ツアー中のカーペンターズの二人が憧れのポール・マッカートニーのスタジオを初めて訪ねた時にポールが二人を出迎えながら歌っていたのが「トップ・オブ・ザ・ワールド」だったそうです。

LP時代のA面最後の曲になる「アイ・キャント・メイク・ミュージック」は何故か最初から大好きでした。大人になった今はその理由が理解出来るのですが、要は内省的な曲を歌うカレン・カーペンターの声が好きだったのだと思います。カレンの語りかけるような歌い出しから「私は歌が作れない」という訳詞を見たときは子供心に何ともやりきれない思いに浸ったものです。そして「愛のプレリュード」ばりの大サビの展開から一旦落として再び最後のサビを大きく歌うカレンの表情豊かなヴォーカル、後ろを支えるチャーチオルガン風の和声からハーモニカとストリングス、ハーモニウムで静かに終わる寂しいエンディングへの流れも劇的です。カーペンターズのアルバムは各面の最後を余韻を持たせるような楽曲を選ぶことが多いですがこの曲は特に内省的な寂しさが伝わります。当時は分からなかったですが兄妹がスターになることと引き換えに抱えつつあった苦悩を暗に示していたのではと勝手に邪推します。また3分ちょっとの短めな曲ながらドラマチックに展開する構造は自分にとって3年後に現れる「荒井由実」と「プログレッシヴ・ロック」に繋がる世界の入り口だったことが分かります。原曲のランディ・エデルマンのバージョンも見つけました。当時はまだ売出し中のシンガーソングライターだったランディ、カーペンターズの前座を務めたことでリチャードがこの曲を気に入ったとのことですがその後のランディ・エデルマンは映画界で数々の音楽スコアをヒットさせる大物になっています。
Randy Edelman「I can't make music」


B面1曲目は本作のコンセプトを代表する楽曲でありジョン・ペディスとリチャード・カーペンター・コンビの最高作とも言われる「イエスタデイ・ワンス・モア」。カーペンターズがこの後にリリースした公式ベスト盤「The Singles」以降に収められているシングル版は何故か「It made me smile」箇所のピアノのハーモニーを変更しており、リミックスされたシングル版のほうがカレンの歌声もクリアなのですがオリジナル世代としてはどうしてもこの和声進行に違和感を感じるので「ナウ・アンド・ゼン」オリジナルバージョンの動画を共有させていただきます。

前曲からムードが引き続がれるかのようなカレンの内省的な歌い出しで始まるあまりにも有名なカーペンターズの代表曲。日本でも一番有名なカーペンターズのナンバーだったのではないでしょうか。オーケストラ以外にもオーボエ、トイピアノ、ハモンドオルガン、フェンダー・ローズやスティール・ギターと様々な楽器たちがところどころに散りばめられたリチャードのアレンジ、カレンのヴォーカルともにカーペンターズの最高傑作と言っても差し支えないでしょう。

カーペンターズがオールディーズに興味を持ったのはいつのことだったのでしょうか。当時のアルバム日本盤ライナーノーツにはリチャードの書斎には何千枚という50〜60年代のポップスのコレクションがありリチャードは常にそれらを研究しています云々な記述があったことを憶えています。リチャードとジョン・ペディスは正にこのアルバムのジャケットにあるダウニーの自宅のリチャードが大切にしているボールドウインピアノで一緒に作りながら、「アルバムの片面をオールディーズで埋め尽くしてみたい、そのための讃歌を作りたいんだ」とリチャードはペディスに依頼したそうです。前年の1972年夏のツアーからオールディーズのメドレーが開始されちょうど参加したばかりのギタリストのトニー・ペルーソが物真似DJを披露していたようで今回のメドレーにも彼のDJが採用されています。自分は初めてこのメドレーを聴いた時、曲の繋ぎ目に空白が無いいわゆるクロスフェードに驚いたものです。今では信じられない話かと想いますが当時のラジオはDJやパーソナリティが曲紹介と音楽が被ると聴取者から「喋りをかぶせるな!」と文句のお手紙が届いたような時代だったので・・・。おじさんの昔話ですみません。

1970年夏の「遥かなる影」のヒット以降、カーペンターズは年間150本以上のライブを行っておりそして毎年アルバムもリリースするという殺人的なスケジュールで、リチャードが曲を書く時間も作家から寄せられてくる曲を聴く時間もほとんど無かったようで、特に1973年はラスベガスのショーやテレビの特番のスケジュールも追加されて本当に酷い状況だったとソングライティングのパートナーであったジョン・ペディスは後年語っています。リチャードとカレンも体力もまだ20代前半だったのでなんとか続いたのだと思いますが兄妹の完璧主義者的な音楽への取り組み方は後のカレンの悲劇への前触れになってしまったかもしれないとカーペンターズ評伝の著者、レイ・コールマンも指摘しています。ともあれオールディーズにちゃんと向き合ってみようというリチャードのジャッジのもとに50〜60年代のヒット曲が集められました。ちょうど同じ年に映画「アメリカン・グラフィティ」も公開された年でもあり北米で初めて過去の音楽を振り返る「オールディーズブーム」が起こったタイミングとなり、それは2020年代の日本に於ける「シティポップ・ブーム」のようなものだったかもしれません。

そしてデジタルストリーミングの時代は素晴らしいです。Spotifyでカバーの原曲のプレイリストを作ってみました!聴き比べてみると面白い発見があると思います。

「ファン・ファン・ファン」はリチャードとカレンの憧れのビーチボーイズ、スキータ・デイヴィスの1962年のヒット曲「この世の果てまで」は13歳のカレンがアマチュアコンテストで初めて人前で歌った曲という記事を読んだことがあります。「ハイ・ロン・ロン」はフィル・スペクター、「デッドマンズ・カーブ」はルー・アドラーのプロデュース、シェリー・フェブレーの1962年のヒット「ジョニー・エンジェル」は日本でもザ・ピーナッツや森山加代子もカバーした有名曲。リチャードが歌う「燃ゆる瞳」は自分が11歳に最初に聴いた時から大好きな曲でした。今思えばカーペンターズ最初のお気に入りとなった1stアルバム「涙の乗車券」収録のリチャード・ヴォーカル曲「ワンダフル・パレード」に繋がる世界だったなと思います。そしてこの後に挟まれるラジオDJとリスナーの掛け合いパートは本当に子供心にワクワクしました。このDJはリアルに人気のあるラジオDJを連れてきたのだとばかり思っていましたが実はバンドのギタリスト、トニー・ペルーソがやっていたのは衝撃です。1991年に発表されたCDボックスセット「From The Top」にこの「ラジオ・コンテスト」のアウトテイクが収録されています。

トニー・ペルーソは家族がクラッシックの音楽一家だったというのもありますが本当に多彩な人だったのですね!この「ラジオ・コンテスト」のやり取りは4年後のアルバム「パッセージ」でも宇宙人を相手にアップグレードされます(笑)。そして流れるようなボサノヴァの「アワ・デイ・ウィル・カム」、キャロル・キング=ジェリー・ゴフィンのノリノリなナンバー「ワン・ファイン・デイ」で締めくくられます。最後はとても寂しい「イエスタデイ・ワンス・モア」のリプライス、兄妹の師匠であるジョー・オズボーンの宙に浮くようなベース、オルガンとピアノの通奏音、リバーブの残響と位相を変化させながらフェードアウト、リチャードはプログレが絶対好きだったに違いないと思わせるエンディングです。

「ナウ・アンド・ゼン」は「ジャンバラヤ」を除く全ての曲のドラムをカレン・カーペンターが叩いています。テクニック、グルーヴともに申し分ないながら小柄な女性の体躯ゆえのパワー不足のため2ndアルバム以降のメイン曲を名手ハル・ブレインに渡すことになったカレン・カーペンターですが、彼女のセンシティブで表情豊かなドラミングが久しぶりに復活、存分に楽しめることになります。「燃ゆる瞳」でも書きましたがこのことは1stアルバム「涙の乗車券」にとても近い印象であり、ある意味カーペンターズの最も本質的な何かを表しているのではないかと後になって気が付きます。

またこのアルバムは前作までのプロデューサー、ジャック・ドハーティと決別しておりリチャードとカレン・カーペンターの全面プロデュースになります。リチャード曰くカーペンターズのアルバムはほとんど自分でアレンジして演奏しミックスも立ち会って自分で作ってきた。ジャック・ドハーティはスタジオやミュージシャンを手配してくれたがカーペンターズのサウンドをプロデュースしてきたのは自分でありカレンであり、ジャック・ドハーティの名前をプロデューサーとしていつまでも残しておくのはおかしいと主張し始めました。これにはA&Mレコードの二人のオーナー、ハーブ・アルバート、ジェリー・モスも同意しジャック・ドハーティは制作部長の職を辞してA&Mレコードを出ていくことになりますが、ジャックはこれを不服として裁判沙汰になり1981年まで引っ張ることになります。成功したアーティストにまあまあありがちな初期の功労者との決別話ではありますが、このこともカーペンターズが小さなバランスを一つ失う事になったのではないか、1975年以降のカーペンターズが今ひとつ乗り切れない、ポピュラー・ミュージック界のリズム革命に乗り遅れてしまう要因になったのではないかと個人的には感じています。

しかしこのアルバムは北米はもちろんイギリスやヨーロッパでも大ヒット、そしてアジア最大のマーケットとして注目を集めていた日本でも75万枚という破格の大ヒットを記録しカーペンターズは70年代の日本で最も知られている洋楽アーティストになりました。カーペンターズは日本の音楽業界にも大変大きなインパクトを残しており、ミュージシャンやアーティストにももちろんですが作編曲家や制作スタッフ、エンジニアたちなど間接的な形での日本の音楽業界、そして「シティポップ」にも少なからず影響を与えていることは間違いないと個人的に考えます。

今思えば一番最初の洋楽体験に最高傑作を聴いてしまったことがその後の自分の人生に与えた影響は計り知れません。この記事を書きながら改めていろんな確認と発見が出来ました。もう少しだけ「この後のカーペンターズ」について書いてみたいと思いますのでまたお付き合いください。


最後まで読んでいただいたありがとうございました。個人的な昔話ばかりで恐縮ですが楽しんでいただけたら幸いです。記事を気に入っていただけたら「スキ」を押していただけるととても励みになります!