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麓でウロウロするって大切なことなんじゃないだろうか?

来年は #自分の本をつくる をテーマに生きようと決めてちょうど1ヶ月が経った。

かつての僕だったら「計画するより行動が大事!」とばかり、やみくもにエッセイを描き散らかし、たくさん書いたもののテーマに一貫性がなく、「これをどう本にまとめたらいいのだろう?」と途方にくれていたと思う。

しかしnoteを機に文章を書き始めて8年、僕もちょっと大人になった。ひどい多動症だったのがウソのようにじっと動かずにいられるようになった。「行動がすべて!」「行動しなきゃなにもはじまらない!」と思って生きてきたが、自分なりに満足のいく結果が出たものは何もなく、さすがに「行動がすべてじゃないな」と学んだ。度重なる失敗を続けていくと、さすがに人は学ぶんだなと思った。ダメ男とばかり付き合ってしまう人もさすがに同じことを繰り返し続けていけば、ある日「もうこういう関係はいいわ」って悟るのかもしれない。

そんなわけで「自分の本をつくるんだ」という遥か遠くに見える目的地を眺めながら、「さてどうするべ…」と思いつつ過ごしているのだけど、この「山の麓でウロウロすること」は何かを成し遂げるうえでは大切なことに思えてきた。

目標を抱えてガムシャラに生きていると視野が狭くなる。足を止めることに抵抗感がある場合はさらに最悪だ。方向が間違っていても気づかなかったり、間違っているのがわかっているのに進もうとすることさえある。

遭難した時はまず止まり、今自分がどういう状況にあるのか冷静に判断する時間が必要だという。動くべきなのか、動かない方がよいのか判断し、動いた方がいいと判断したら動く。そのくらいのペース感でこそ、遭難からの脱出という目標をクリアすることができる。今自分が向かっている本づくりも同じなのではないかと思った。というより今まで僕が取り組んできたことすべては本当はそうあるべきだったんじゃないかと思った。自分の状況を確認しながら動くべきか動かざるべきか判断し、動く時がきたら動く。これをやってこなかったから毎回途中で空中分解してきたのだ。

先週は矢沢永吉の「アーユーハッピー?」を読んで感動し、「自分はどんな本を作りたいのだ?」と問い始めた。それからは本棚にある自分の好きな本を読み直している。先人たちに本を通していただいたものを、僕というフィルターを通して誰に何をどう伝えるのか?そこを自分に問い直している。

今週読み直していたのは「嫌われる勇気」の続編「幸せになる勇気」だった。「今一番好きな作家は誰ですか?」と聞かれたら「古賀史健さんです」と答えるだろう。本を読み返すことができなかった僕が初めて読み返した本が「嫌われる勇気」だった。かれこれ3回読んでいて、「幸せになる勇気」も2回読んだ。先日出たばかりの「さみしい夜にはペンを持て」は読み終わってすぐにもう一冊購入し、娘と2週間かけて一緒に朗読した。そのくらい好きだ。

こんなに好きな作家なのに、まだ読んでいない本があった。「20歳の自分に受けさせたい文章講義」。話せるのに書けないのはどうしてなんだろう?という疑問に答えてくれる本で、読んだら書く自信が湧いてくるという。「さみしい夜にはペンを持て」を読んだら日記を書きたくてたまらなくなる。自分を知る道具としての日記の価値に気づく。きっとこの本も僕に何らかの方向性を示唆してくれるだろう。

良いプログラマーは自分の頭の中でロジックを組み立て、設計し、イメージがクリアに見えたとき一気に書き上げると聞いたことがある。それってプログラマーに限らず、あらゆるプロフェッショナルたちがやっていることな気がした。

しっかり設計して、楽しく本をつくる。

そのためにもう少し僕は山の麓でウロウロすべきなんだろう。


▽ 鋸山(千葉県)の麓で呼吸で体を整える場所を運営しています。

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