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自分の本をつくるというのは煮込み料理のようなものなのかもしれない

「来年は #自分の本をつくる これをテーマにするぞー!」と意気込み、noteにしたのがちょうど1週間前だった。

実はそのあと数日経った朝、いきなりこの目標は消滅しそうになっていた。
起きたら全然熱量がないのである。「昨日までの恋する気持ちはどこへ?」という感じだった。何かに落ち込んでいたわけではない。いたっていつも通りの朝だったのだけど、燃える思いがないのである。
「自分の本をつくりたいという気持ちは自分の心から思っていることじゃないのかもしれない…」
そんなふうに思った。

こういう経験は今まで何度となくあった。
「うぉー!やりたい!やるぞー!」と燃えていたのに数日経ったらその気持ちはどこへやら?そうしてフェードアウトしていく。
熱しやすく冷めやすい。飽き性。ただそれだけのことなのだろうか?もしかして飽き性なのではなくて、それが普通のことなんじゃないだろうか?と最近ちょっと大人になってきた心の中の僕が言った。

自分を定義するということは自分をつくることである。
飽き性と定義したら、その定義に引っ張られる作用が生まれるから飽き性になっていく。いったんその定義が定着すると飽き性じゃない自分に戻るのは難しくなる。めんどくさがりと定義すればめんどくさがりになるし、がんばり屋と定義すればがんばり屋になる。
自分をつくるのって案外カンタンなのかもしれない。自分で定義し、その導きに沿って生きていくことができるのだから。
私はモテると思っている人は、周りから見ると「そうかぁー?」と思うような状態でもどういうわけかモテる。長年の観察からそれは間違いないと思う。

そんなわけなんで僕は自分を飽き性と定義するのはやめる。
熱しやすく冷めやすいわけでもないと決める。
最初に熱くなるのは人としていいことなんだ。そのあと冷めていくのは当たり前のことなんだ。高い熱量を維持し続けなければ完徹できないようなことはない。静かな熱量というものもあるはずだ。

プロパンガスを例にすると分かりやすい。高い熱量でガスを使えば早くなくなる。低い熱量で使えば長く持つ。時間のかかる料理なのに高い熱量で熱し続ければすぐに水分がなくなって焦げる。料理は完成しない。長い時間のかかる料理は低い熱量でゆっくり熱するからこそ美味しい料理として完成する。

きっと自分の本をつくるというミッションは時間のかかる料理のようなものなのだ。低い熱量でじっくりことこと煮込む。そんな煮込み料理のような取り組みが本をつくるということなのだろう。

そう考えたら数日前の朝、僕の熱量を下げてくれたのは神様かもしれない。
「そんな熱量ではうまくいかないよ」
「もうちょっと低い熱量で静かに取り組むといいよ」
と教えてくれるべく、体を通して僕の感情をコントロールしてくれたのかもしれない。きっとそうなのだ。

神様とは自分の中にいる自分のことである。
体を持たずに永遠に生き続けている大いなる存在。万能だからそれぞれの命に対してあたかも自分のためだけに存在しているかのように感じさせてくれるすごい人。
神様、いつも僕をうまく導いてくれてありがとう。低い熱量でじっくりことことやる技術、錬成してみますね。


▽ 鋸山(千葉県)の麓で呼吸で体を整える場所を運営しています。

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