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腫れ物にさわるような扱いって

先日から壊れやすい「瓶ビール」をカバンにつめての長旅中。やっと静岡で重荷をおろせて一安心。この間意外と恐る恐るカバンを扱っていた。

そんな旅の途中、恐る恐るという感覚から、「腫れ物に触る」ということについて考えることに。移動時間が長いといろんなことを考えるものです。(パソコンが壊れているので作業ができないので余計に。)

「腫れ物に触る」ということでいうと、やはりさまざまな立場の方とお仕事や活動の場面で、特定の方の機嫌を気にして振る舞いをする方の姿を思い浮かべてしまう。

「あの人の機嫌を損ねると面倒臭い」
「あの人気難しくて関わり方がわからない」
「すぐ感情的になる」
「自分のことは棚に上げてまわりを叱咤ばかりするから怖い」

逆に

「神経質すぎて心配」
「目的に一直線すぎて暴走気味で心配」

などなど、そんな言葉と一緒に。
ポイントはそんな人が案外その場にはいないのに影響力がありそうなことが多く、陰口のようになっていたり、その人が壊れてしまうではないかという心配という状況とセットだったり。

もちろん話をしている人たちは陰口のつもりはない。みんなでよりよい議論を重ね活動をしていくために、機嫌よく関わってくれる方がその本人にも、他のみんなにとってよいだろうと思い悩んでいるからであったり、心配しているからでる言葉なのだろう。

一方でもしその言葉を「腫れ物」と言われる人が聞けば、また機嫌が悪くなったり、心配かけまいとさらに頑張るだろう。負のループだ。

まだ直接言い合えているうちはよいのですが、大抵はその「腫れ物」とされた方以外で議論が進み出していくことになる。徐々に距離を取り出すイメージ。さわると大変なことになるのだから、さわらなくてよいように「距離をとる」か「意識しないようにする」とか「仕事を振らない(負担を減らす)」いう感じですね。ほんとうにそれでよいのかと言われればそんなことないのはみんなわかっているけど、だれもがうまく対応できるわけでもない。特に自身のコンディション次第で随分その対応は変わるのではないかなと。

そういえば腫れ物ってどんなときにできるんだろうか?

虫刺されとか、ウイルス感染とか悪いものがその患部に入った時におきる反応だったりする。痛かったり、痒かったり、熱かったりするわけだけど、それは自分のなかでの反応なわけです。ということは「腫れ物に触る」というときに「腫れ物」にされた方にとってもやはり大事な反応なのだろうな。

過剰に反応できる人は「腫れ物」として主張できるけど、実際には「違和感」はあっても我慢している人も多いかもしれません。

もし腫れ物にさわるような扱いが必要と感じた時は、その個人への応答だけでなく、その職場や活動のなかに自分たちが大切にしたいことに対して「よくないもの」が入って来たのかもしれないと立ち止まり考えてみることもよいのかなと。

人は物事をいろんな角度やフィルターをとおして捉え、これまでの知見・経験で構築した価値観で解釈し、受け止めていきます。だから相手からすると誤解であることも多いです。自分がどのように捉えたかという立ち位置・価値観を認識し直し、相手との差異を測った時にもしかしたら「腫れ物」の原因への理解が進むのかもしれないなと。

本日は名古屋で研修講師して京都に戻ります。


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