ドン・シーゲル 燃える平原児

ドン・シーゲル特集 「燃える平原児」
菊川のstrangerにて
 エルビス・プレスリー主演の西部劇なのだが、設定と話がこの時代にしては中々責めている。ネイティブアメリカンと白人の間に生まれたのがプレスリーで、父親と母親、それに腹違いの兄と4人で牧場をやっている。ところが、近隣の地区でカイオワ族の酋長が交代。それまで穏健だった酋長から武闘派の酋長に変わり、徹底的に白人と交戦することになる。一方、母親が先住民で自分はそのハーフと言うプレスリーは、町の白人には差別され、カイオワには俺たちと戦おうと誘われる。そのうちに母親が白人に撃たれ、父親はカイオワに撃たれ、自分の意思とは関係なく戦争に巻き込まれていくという、現代の政治力学からの戦争にも充分当てはまる、人間の差別とつまらないプライドからの悲劇を描いている。

 「人間は違う人間を認めようとしない。それが悲劇の始まりだ」みたいな台詞があるが真にその通りだと思う。

 さて物語はそんなところなのだが、この悲劇の西部劇をドン・シーゲルは実にダイナミックな演出で描き出す。特に扉を使った演出が今回もまたうまい。プレスリー一家にとって、相手が先住民だろうが、白人だろうが扉の向こうに現れる人々は常に対立する人々であり、扉を開いた瞬間からどのシーンも悲劇が始まる。扉の向こうとこちらは、ドン・シーゲルにとってとても重要なモチーフだと思う。
 同時にワンショットに情報をいくつも入れていく演出はこの映画では特に冴えわたる。アクションシーンで、撃った撃たれたをワンショットに収めるだけではなく、通常2カットで見せる例えば丘と家を馬の移動につけたパンとドリーで効率的に見せると同時にスケール感を出すとか、去っていくプレスリーを捉えた画面の向こうから父親がやってくることで、ドラマの進行をワンショットで見せていく。
 また、この牧場の家、厩舎、丘の配置が見事で、芝居と人の出し入れから、ツーショットの背後に誰かが現れることまで計算してオープンセットが設えられている。オープンセット設計の段階で芝居が監督に見えていないと出来ない設えだと思う。だから効率よくしかも見る人間の感情を動かせる演出が出来るのだ。

 これはドン・シーゲルがB級西部劇やアクションで、時短の為にやっていた方法論を、大作映画の中で見事に活かした演出だろうが、効率性を重視した演出は時短にはなるかもしれないが、撮影現場では監督と助監督とカメラマンが相当に知恵を絞って「その瞬間」を成立させていくので、実は手間暇はかかる。この手間暇を惜しまず、頭脳を使うことこそ才能というのではないだろうか?シーゲルの映画を見ていると、安易にカットを割ることを反省してしまう。と、ここまで書いてこの映画がプレスリーのスケジュールもあってか2週間で撮られたことを知る。凄いね。

 蓮實重彦をして「仮にこれが傑作でないとしたら何を傑作と呼べばいいのか」と言わしめた「燃える平原児」だが、蓮實さんのこの言葉は褒め過ぎではない。


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