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【建築】5月のそよ風が吹き抜けるヒアシンスハウス(立原道造)

アーティスト・今村遼佑さんの個展に足を運んだ。"日常の暮らしの中でふと気付く感覚"を作品に反映している作家さんだ。

その作品の中で、数枚の絵に目が留まった。

抽象画なので何が描かれていのかは分からなかったが、新緑のような色遣いはとても爽やかな気持ちにさせてくれた。添えられた解説によると、詩人・立原道造が結核で入院していた時、お見舞いに来た友人に語った言葉にインスパイアされたとのことだった。

その言葉とは?

私たちは中野の病舎にお見舞にいった。(中略)「何か欲しいものがあれば、注文なさるといいわ」と私がいふと、「それでは注文を出しませうか、一度づつでおしまひになる小さな罐詰をいくつも欲しいのです。さうすると食事の度に楽しみでせう。それがサンククロースのおぢいさんが持って來るやうな袋の中に入っていると一さううれしいな 」といひ、(中略)「それからもう一つ欲しいものがあります、五月のそよ風をゼリーにして持って來て下さい」といひ、「非常に美しくておいしく、口の中に入れると、すっととけてしまふ青い星のやうなものも食べたいのです」ともいった。

若林つや「野花を捧ぐ」から


素晴らしく詩的な表現だが、5月のそよ風って何だろう?


彼はこの一週間後に24歳の若さで亡くなるのだが、病床でもこれほど美しいことばを紡ぎ出す立原道造という人物に俄然興味が湧いた。


「ぼくの半身は詩を考へ、もうひとつの半身は建築を夢見る」と語る立原は、詩人であると同時に建築家でもあった。東京帝国大学で建築を学び、優秀な設計作品に贈られる辰野賞を3度も受賞している。卒業後は石本建築事務所に入所するが、翌々年の1939年に前述のように若くして亡くなったため、実作を残すことはなかった。しかし後年になって、彼が残したスケッチを基に造られた建物があると聞き、5月4月のある日に訪れてみた。




JR浦和駅から西へ1.7km。現在は市民の憩いの場となっているさいたま市別所沼公園がある。1938年頃、立原はこの沼のほとりに小さな週末別荘を構えることを計画していた。

当時、別所沼周辺には多くの文化人が住んでいた。立原が兄と慕う詩人・神保光太郎もその一人である。その神保からの薦めもあり、この別所沼のほとりを別荘の地として選んだ。

別荘の名前はヒアシンスハウス(風信子荘)。立原が魅せられていたギリシャ神話に登場する美少年ヒュアキントス(ヒアシンス)から名付けられている。


建物面積は15平米ほど。別荘というよりは小屋に近い。

片流れの屋根と開かれたコーナー窓がとても印象的だ。


ドアは外に直接面してはおらず、少し入り込んだ玄関に配置されている。コレが重要なポイント!


内部はワンルーム。入って左側に書斎と寝室がある。


玄関というスペースを設けると狭い建物がさらに狭くなってしまうが、これによって、ワンルームでありながらも半ば仕切られた空間ができる。人間とは不思議なもので、必ずしも広い方が快適とは限らない。むしろ少し狭い空間の方が落ち着くこともある。少なくとも私はそうだ。
この別荘ではその狭い空間にベッドを置いている。眠るには最適ではないか?


ベッド横にある小さな出窓には、ちょうどヒアシンスの花が飾られていた。(ヒアシンスの開花時期は3月〜4月頃。今回のタイトルに付けた5月ではない)
本来であれば、この窓から別所沼が見えるはずだったが、実際に建てられた今の場所は当初の計画地とは少し異なっているため、この窓から沼は見えない。


この日の天気が良かったこともあるが、書斎からの眺めも素晴らしい。顔を上げれば緑が目に入る。公園となっている現在は多くの木々が植えられているが、当時も緑に囲まれていたであろう。

家具のデザインも立原による。椅子の背もたれには十字がくり抜かれている。


水平窓。スペースを効率よく使うため、その上は本棚になっている。


この小さな建築の白眉は心地良い風が吹き抜けるリビング。東屋的な要素もある。奥行きのある窓台は観葉植物を置くにも適しているし、ちょっとしたテーブル代わりにも使える。


少し暗めの寝室、水平窓のある書斎、半屋外の明るいリビングというように、小さな建物の中でも流れをつくって環境を変化させている。感性豊かな建築だ。

もちろん窓は閉められる。(写真では片側だけだが、両側閉められる)

雨戸だけ閉めるのもアリだ。

この雨戸にも十字がくり抜かれている。立原が好んだデザインだったのかな?

雨戸は上からの吊り戸。下にレールが無いので、窓台がスッキリする。


ディテールに目を移せば、ドアや戸棚の取っ手も丁寧にデザインされている。

昭和初期の雰囲気を漂わせる照明も、今ではレトロ感がある。


外に出て、建物周囲を回ってみよう。

樋からの雨水を受けるのは壺。センスいいなあ。

ベッドにある出窓は外から見ても味わいがある。

裏側。

在宅中には旗を掲げられるように、ポールも計画されていた。


ところでお気付きになったろうか? そう、キッチンや風呂・洗面がないのだ。

キッチンがないことについては、「食事は周辺に住む友人たちと一緒に食べよう」と考えていたらしい。毎食ご馳走になろうということだったのだろうか?(私だったら、使う機会が少なくても、流し台とコンロは絶対用意するけどね)
風呂・洗面が無い理由は不明。銭湯や共同水場に行くつもりだったのだろうか?(私だったら、シャワーと洗面は絶対用意するけどね)


ちなみに立原はこの小さな住宅に50通りもの様々な案を検討していたという。

最終的には仕上げの材料はもちろん、色もほぼ決めていた。


これら以外にも、ディテールのスケッチが何枚も残っている。こうした資料を基に、立原が夭逝してから65年後の2004年、有志の熱意と全国からの寄付金により、この公園の一画を借りてヒアシンスハウスがつくられた。


このヒアシンスハウス、狭いながらも室内は驚くほど居心地が良かった。ここで読書したり、あるいは何もせずただただボーッとしたり…。
私もこんな小屋が欲しい。

ま、こんな私の拙い文章ではなく、今回はやはり立原の言葉で締めよう。

僕は、窓がひとつ欲しい。

あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。

そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。

僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。

僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……

草稿「鉛筆・ネクタイ・窓」から


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