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畳水練

『知っている事』と『できる事』は必ずしもイコールではありません。これは知っているだけで出来るつもりになってはいけないという戒めですが、情報社会になった事により知識偏重の為『知っていれば出来る』と思う人が増えてきているみたいです。しかしこれは大きな間違いです。実際『出来る』と『知っている』の間には深くて大きな溝があります。それを埋めてくれるのが現場での経験です。

明治維新の前に咸臨丸という船で太平洋を横断して初めて日本の代表が米国を訪問しました。その時に乗り組んでいた中浜万次郎は元々土佐の漁師でまだ少年の頃に船が難破した為に漂流していました。そしてたまたま通り掛った米国の船に助けられて米国へ渡った後、英語や航海術を学んだのでした。

航海中咸臨丸は大しけに会い、艦長の勝海舟以下日本人乗組員は船酔いの為に半死半生の状態であったそうです。中浜万次郎は元々漁師であったので一人だけ平気で、米国仕込みの遠洋航海術の知識と共に大いに役立ったそうです。この時の船酔いの体たらくから同乗していた福沢諭吉は勝海舟に批判的発言をするようになったそうです。また米国へ着いた後は、交渉の為に同行した日本人通訳が役に立たなかった為、万次郎の流ちょうな英語は議事の進行に大いに貢献したそうです。

英語会話の練習

大学一年生の終わりごろ英語会話を勉強しようと一念発起しました。それで英語会話学校に通う事や、大学に在ったL/L教室に行って勉強しました。そこでの練習は英会話を勉強として、ひたすら繰り返して暗記する事でした。しかし誰かによって作られた情景には興味が湧きません。一向に上達もせず、会話学校の中級への進級試験にも落第しました。これではだめだと思いました。

それもそのはず、一生懸命に畳水練していたわけです。そしてやっと気づきました。『米国では、勉強などした事のない幼稚園児でもできる事が、7年以上英語を勉強してきた大学生の自分にできないのは何か変だ。勉強として英語に接する事が間違っているのかも知れない』と感じました。

京都の観光寺院には外人が大勢来ています。その頃学校へはオートバイで通学していましたので授業の空き時間にそういうお寺に行き、入場料を一回だけ払って入り口付近にいる外人につたない英語で話しかけました。そしてお寺の案内をして、相手にも喜んでもらえました。

お寺を一巡すると、また入口付近に戻り、次の人に話しかけました。毎回同じところを回っているので話す事や聞かれることもほぼ同じで自分の五感をフル活用して会話をしました。あの時は上達の速度がすごく早かったのを思い出します。特に龍安寺は、出口と入口がほぼ同じ場所で、時間効率がよく、面白く英会話のトレーニングが出来ました。

その甲斐あって、半年ほどで日常会話が出来るようになりました。今でも京都弁の英語だと言われる時がありますが我流の為に、発音やイントネーションに気を使わなかったからかも知れません。その時、会話は暗記や勉強ではなく五感を慣らす事だと理解しました。

『おさわり会』

英会話の力を認められたのか、商社に入社して配属されたところが仕入れ担当部門で、技術系の学歴の為、商品知識を身に着つけるようにと、『英語のカタログを読んで商品説明が出来るようになって下さい』と上司に言われました。少しは読みましたが難解な部分が多く、使用経験もないものを理解する事はほぼ不可能と感じました。

それから少しして上司が変わりました。『君が先生になって市場担当の若手営業社員向けにおさわり会をやろう』と提案されました。工場から商品を借りてきて、自分で商品研修用のレジメを作るわけですから、初めのうちはハードルが高いと感じましたが、その内に楽しくなって、初めて会社の仕事が面白いと感じました。

『難しい事はやさしく、やさしい事は深く、深い事はより面白く』とは井上ひさしさん言葉ですが、世の中には難しい事をわざと難しく言う人や難しくて分からなければそれが高尚だと錯覚している人もいます。そう言う人は数多くいます。

分からないままにどんなに力説してもそれは無駄というものです。確かに日本人同士ですから日本語はできてもそれで正確に伝わっているとは限りません。それは思い上がりです。それは時間の無駄でもあります。それで受講者に理解してもらえるようにいつも工夫していました。これも貴重な経験でした。

中近東での簡易テレビスタジオの設置工事

中近東でその当時新しいカテゴリーであったビデオやカメラを販売する為に何回も展示会に出張しました。そしてそこで見つけたユーザー訪問を繰り返していました。このアイテムは使用する為のシステム化による見積もり、設置工事と施工後のメンテナンスを実行しないと販売できません。この部分は元々の商社としての機能には含まれていませんでした。また価格競争に勝つためには外注の工事管理者の出張費用はあまり取れません。仕方なく自分で工事監督に行く事が多くなりました。

それにより中近東地域の文化に詳しくなった事と工事を実行する上での不測の事態に対処する方法を理解できたことは独立して会社を作った時に大いに役立ちました。まず到着している商品が故障している可能性があります。欠品の可能性もあります。また施工中に施主から、追加アイテムの依頼や機能を増やしてほしいなどの依頼もあります。そんな場合、街の電気店で売られているありあわせのもので、それを実現すると大変喜ばれます。これはつまりプリコラージュの力です。これは経験不足ではなかなかできるものではありません。

会社の設立と運営

40歳の時に決心して、その頃はまだ一般的ではなかった脱サラを実行して、新しい会社を設立しました。株主になってくれた人は3人いましたが、実務担当は自分一人でした。その時まず感じたのは自分の無力さでした。仕事の流れは理解していましたが、会社を立ち上げるには全ての業務を自分でこなさねばならないので、様々な新しい経験をする事になりました。

また会社が大きくなり始める頃にはある程度メンバーを採用しなければなりません。その頃からメンバーのモチベーションを上げる事にも注力していました。以前の会社では一匹狼的な働き方でしたので、こういった業務や人事的な考え方に慣れておらず、様々な失敗を繰り返していました。自分の経験が如何に狭くて未熟なものであったか、実際の経験が如何に大事であるかを思い知らされました。

つまり今までの経験はただの『畳水練』であったとの事がよくわかりました。

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