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ランゲージアーツ(言語技術) 事実と意見,様相その1

ランゲージアーツ(言語技術)の世界を,今日も自由に探訪します。


1 言語技術における事実と意見

文章を書くとき,あるいは文章を読むとき,「事実」「意見」を区別する必要性が指摘されます。
一見単純そうにみえる事実と意見の区別という視点。しかし,事実と意見という分析視角が生み出す様相は,実に多様な側面があります。今回は,その一様相をすこし探検してみます。

『理科系の作文技術』『レポートの組み立て方』などによって,日本における「言語技術」という概念普及の基礎を作ったといえる 木下是雄。彼の『レポートの組み立て方』 に,次のような記述があります。

欧米では,事実と意見(自分または他人の考え)とを峻別する訓練が言語技術教育の礎石とされているのである。

木下是雄『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫,1994)25頁

確かに,事実と意見を区別するということはとても大切なことです。


さて,次のような例がよく引き合いに出されます。

文1 織田信長は戦国武将であった。
文2 織田信長は革新的な戦国武将であった。

言語技術の場面では一般に,事実とは検証可能で裏付けることができるもの,意見とは推論や価値判断などであって他人がそれに同意するかは分からないものとされています(木下是雄による「事実」と「意見」の概念規定については『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫,1994)37~40頁参照)。

そして,文1は事実を記述したもので,文2は意見を記述したものである,と説明されるようです。
織田信長が戦国武将であったかどうかは,史料により裏付けられてきたもの(正確には「裏付けることが可能なもの」)のはずで,文1は事実を記述したものといえます。他方,織田信長が「革新的」であったかどうかについては様々な見方があり,他人がそれに同意するかは分からないので,文2は書き手の意見が記されたものである,ということになるようです。


2 裁判(訴訟)の場における事実と意見・評価の捉え方

さて,裁判(訴訟)では,事実評価の違いを強調します。
先程の事実と意見の区別と同様の面があるのですが,上記の説明とは多少違いがあります。

文1が事実を記述したものであることは,仮に訴訟の場であっても変わりません(厳密には違う見方ができますが,それはまた別の機会に触れることとにします)。
しかし,文2については次のように考えます。

文2について,「織田信長が戦国武将であったこと」は事実と捉え,「革新的であった」との点については意見・評価と捉えます。

これは結局,文2を「事実」と「意見・評価」が混ざっている文であると捉え,これを分解可能なものとして捉えていることを意味します。つまり,「織田信長は戦国武将であった(事実)。彼は革新的であった(意見・評価)。」という二つの分解可能なものを一文で表現した,という理解をするということです。

仮に訴訟の場で,相手が文2を主張し,こちらがその主張を認めるかどうか反応を示す必要がある時(そんな時があるのかは分かりませんが)は,「織田信長が戦国武将であったとの点は認め,革新的であったとの評価は争う。」と反論したりします。


3 文末の言葉遣いで区別できるのか

さて,さらに文を作ってみます。

文3 織田信長は革新的な戦国武将であったと私は考えている。

これはどうでしょうか。

「革新的な」という評価的表現が入っているので,文3は意見を記述したものであると捉える見方がもちろんあります。

他方で,文末表現に着目して,事実と意見を区別する指標の一つにすべきとの指摘がなされていることがあります。文末に「思う」「考える」「考えられる」「べきである」というような表現があれば,これは意見を記述した文であると捉えるそうです。その立場に立つと,文3であれば,「~考えている。」という文末の言葉遣いに着目し,意見を記述したものであると判断するようです。


しかし,仮に訴訟の場で文3が言われたとしたら,次のように分析することになります。

文3について,
まずは大きく捉え,相手が「織田信長は革新的な戦国武将であったと認識・判断していること」については事実と捉えることになります。
あるいは分析的に,「織田信長が戦国武将であったこと」は事実と捉え,「革新的であった」との点については意見・評価と捉え,「書き手が,織田信長は革新的な戦国武将であったと認識・判断している点」については事実と捉えることになります。

書き手が何かについて考えている,というのは一つの事実です。書き手が,「Aは〇〇(意見・評価)だ。」と考えていたり,思っていたり,評価を下していたり,判断・認識していたりすること,それ自体は,事実の世界に属します。

相手が,そのように思っている,考えている,ということをまずは一つの事実として捉えることは,「それはあなたの意見でしょ(言外に「あなたの意見にすぎないでしょ」というニュアンスを含む)」と切り捨てる態度と対極に位置します。相手はそのような意見を有している,という事実をまずは受け止めること,これは相手を尊重する出発点であり,相手と対話する前提を築くことであり,その意味で重要なステップだと思います。
そのうえで,相手が有している意見・評価の中身なり妥当性なり根拠・理由なりを議論するという順序が,心理的にも重要なことのように思われます。

このように,事実の記述か意見の記述かという区別において,一つの文だけを捉えて(つまりは,文脈を捨象して),文末の言葉遣いだけで判断するという方法は,かなり危ないことのように思えます。



4 一文だけで判断するという混乱,文脈への視点移動
さて,次の文はどうでしょうか

文4 織田信長は戦国武将であったと私は考えている。

文末が「考えている」だから,意見を記述した文と捉えるのでしょうか。

「織田信長が戦国武将であった」という記載は,事実を記述しています。
また,そのように「私は考えている」ということそれ自体は,一つの事実を記述するものです。書き手の内心的事実です。したがって,文4は事実を記述した文,ということになるのでしょうか。

よく考えてみますと,織田信長が戦国武将であったということそれ自体は,あまり争いがない歴史的事実のように思います。それなのに,あえて文4を提示して,書き手が「・・・と私は考えている。」と言っているのは,それなりの背景なり文脈がある気がします。つまり,例えば何か,織田信長が戦国武将であったことを疑わせるような見解の存在や,「戦国」や「武将」という用語の厳密な使い方について議論が交わされているというような背景・文脈です。そのような場合には,文4のような記述の提示は,とても自然なものと受け止められるでしょう。
その際には,文4は,かかる見解を書き手が有しているということ自体は事実と捉え,「織田信長が戦国武将であった」という認識なり判断なりを,意見・評価として表明している,と捉えることになると思います。

こうして,極めて常識的な結論である,文脈を重視するという視点が導かれることになります。


【参考文献】
木下是雄『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫,1994)




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