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メモ書き M・ポランニー『暗黙知の次元』に寄せて(第Ⅰ章 暗黙知)⑤実在との一致、言葉の行き交う共動

マイケル・ポランニー(高橋勇夫訳)『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫,2003)に必ずしも依拠しない私的メモ書きです。暗黙的認識と実在や他者との関係、「言葉の行き交う共動」という概念などについて書いてみたい]




1 実在との一致

(1)その人独自の近位項体系

このメモ書きでは従前より、世界を捉える近位項体系について、その人の独自性を強調してきた。

遠位項への近位項の投射を繰り返し、近位項の感度や強度を高め、練度を深めて遠位項を近位項に組み込み、自身を拡大し自身を変えていく。ときに近位項を突き放して振り返り、遠位項化して吟味省察する。こうして強度や密度を増した(元)近位項を、再度近位項体系に組み込むことで、近位項体系が再編成され、次に遠位項に投射する際には、更新された意味理解が可能となり、新しい統合的な包括理解が実現する。これを繰り返す。しかも、暗黙裡に。なにしろ、事物と事物の間に近位項-遠位項という投射的関係を樹立してこれにより世界の意味を把握する過程を暗黙的認識と呼ぶのであるから(横山拓/鈴木宏昭「プロジェクションと熟達~マイケル・ポランニーの暗黙的認識の観点から~」日本認知科学会第34回大会発表論文集,2017,164-170[165]頁)。


(2)ゴルギアス復活

暗黙的である、ということはこの認識過程や認識の内容及び様相は自身でしかつかめず、他者には直接伝達する方法はないし、できない、ということである。形式化も不可能である(同書44頁)。するとここにゴルギアスがよみがえることになる。

ゴルギアスは「もし何かが存在するとしても知ることはできないし、もし知ることができるとしても他人にそれを伝えることはできない。なぜなら事物は言葉ではなく、かつ、誰も他人と同じものを心に思い描くことはできないからだ」と言って、存在論・認識論・意味論の全てに罠をしかけた、らしい(佐藤信夫『レトリックの意味論』講談社学術文庫,1996)。

暗黙的認識で世界現実を把握するというのが人間の認識の正体であるのであれば、やはりゴルギアスの懐疑的相対主義が正しかったということになるのか。

人は自分の目でしか世界を見ることはできず、その人の言葉でしか世界を分節理解できず、その人の表象だけで世界を独善的に構築し、その世界を生きる。他者も同じく、その人だけの世界を生きている。「共感できた」「共通認識に至った」と感じる瞬間があるように思えるがそれは幻想である。共有できた、ということ自体が思い込みであって、双方が幸せな誤解にもとづく錯誤の共感を生んでいるに過ぎない、というわけである。

こうなると、人は生の意味を感じることができなくなっていく。相対主義は他者(の感受性や考えなど)を尊重するという謙虚な側面を有するが、他方で、砂粒のように個々別々となった自分が、何の足場もなく浮遊し出し、「オレの勝手だろ」というふてくされた開き直りと他者軽視に直結するという逆説を含む。他者軽視がどのような暗部を開くかはいうまでもない。虚無感の深い闇が必ず力への信奉を生み出し、他者を踏み潰すより大きな車輪を求め続けるという飽くなき衝動に突き動かされていくことになる。


(3)認識と存在

しかし、ポランニーは周到である。彼は、成功した暗黙的認識は実在と一致するとして、認識論と存在論を結びつける論理を配備した。

しかし、私たちは問題を認識することはできるし、その問題がそれ自身の背後に潜んでいる何かを指し示しているのを確実に感じ取ることもできる。したがって、科学的発見に潜む含意インプリケイションを感知することもできるし、その含意の正しさが証明されると確信も持てるのである。どうしてそんな確信が持てるかと言えば、その発見についてじっくり検討を重ねているとき、私たちは問題それ自体を見ているのではないからだ。そのとき私たちは、それに加えてもっと重要なもの、問題が徴候として示しているある実在リアリティへの手掛かりとして、問題を見つめているのだ。・・・(中略)・・・すなわち、私たちは、初めからずっと、手掛かりが指示している「隠れた実在」が存在するのを感知して、その感覚に導かれているのだ。

同書49-50頁

暗黙的認識とは、事物と事物の間に近位項-遠位項という投射的関係を樹立し、それによって世界の意味を把握する過程である。そして、物理化学者として多くの発見を成し遂げたPolanyiが精力を傾けたのは、投射としての暗黙的認識が、個人的かつ暗黙的に遂行されるにも関わらず、適切になされた時には確かに実在と一致することを示すことであった。

横山拓/鈴木宏昭「プロジェクションと熟達~マイケル・ポランニーの暗黙的認識の観点から~」日本認知科学会第34回大会発表論文集,2017,164-170[165]頁


成功した暗黙的認識は実在と一致する。それは、自分と他者がそれぞれ、異なる独自の近位項体系で遠位項をとらえようとしたとしても、統合的な包括理解が成功すれば、その時には実在の感知に至っている、ということである。別ルートから登り、やがて同じ頂上に至るように。ここに懐疑的相対主義は打ち破られる。

他者と同じ実在をつかんでいる、という実感が生の意味を生む。これは難事業に相違ないが、しかし認識共有や共感は成り立つのだ。「人は一人では生きられない」というのは、「人は一人では生の意味を感じられない」ということである。いかに「われたっとし」とさかしらに世界認識を誇っても、他者のいない世界に意味はない。



2 「共動」について

(1)コミュニケーション論

では、自分と他者とが同じ実在をつかんでいる、と一体どうやったら実感できるのであろうか。それぞれ暗黙的認識により対象と向き合っているのであって、その内容を正確に他者に伝達する手段は存在しない。伝えても本当は伝わらないし、形式化してもあらゆる微細な情報(そもそも形式化できないもの)が零れ落ちて、内容の乏しいものしか生まれない。相対的認識の単なる相互通報にならないためには、実在についてどうやって他者とコミュニケーションしたらよいのであろうか。


(2)言葉の行き交う共動

答えは「言葉の行き交う共動」にあると思われる。ある対象を置く。これを、自分一人で動かすのではなく、他者と共に動かしてみること、その際に、言葉を交わすことである。

ある対象、これは事物や概念でも何でもよい。虚構のものでももちろんよい。「動かす」ことにより、数えきれない回数の複雑な投射関係が生成消滅する。その際に言葉を交わすことは、投射関係にさらなる重層性を加えることになる。

実はここでの投射関係には、自分を近位項、他者たる相手を遠位項とする投射関係が含まれていることに注目すべきであろう。他者が遠位項であれば、これを自己の拡大により新たな近位項の範囲とし、当該他者がつかまえようとしている遠位項を感知することも原理上可能となる(多段階投射)。つまり、自分は自身の近位項体系で遠位項をつかもうとするという投射関係ルートと、自分自身を近位項として相手を遠位項とするもう一つの投射関係ルートを作り出すということである。この場合にのみ、両者間の真のコミュニケーションが成り立ちうる。この時に交わされる言葉は、相互に、相手が感知していることを感知している中で交わされれるものだからである。




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