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奇跡について/手塚治虫,ブラック・ジャック「過ぎさりし一瞬」より

〔このnote記事では、手塚治虫「過ぎさりし一瞬」(『ブラック・ジャック⑯』(秋田文庫,2000)所収)の内容に触れますので、まだお読みでない方はご留意願います〕


手塚治虫『BLACK JACK 第16巻』(秋田文庫,2000)

1 はじめに

物語は謎から始まる。

タクシーの運転手として働きながら定時制高校に通う青年 今村健平は、小さいころから編みものなどが得意である。彼の背中には二か所、銃創のようなアザがある。しかし撃たれた記憶はない。他人の傷を見ると自分にも同じようなミミズバレが生じるアレルギー体質を自覚しているが、もう何年も前からおさまっていた。

ところが、ブラック・ジャックを客として乗せ、その顔の傷を見てから、このアレルギーが再発する。ブラック・ジャックは彼を入院させる。

----------みんな逃げて、殺される。教会へ!撃たれる!アニタ、おかあさん!---------悪夢にうなされ、悲鳴をあげてベッドから転げ落ちた健平の背中の二か所のアザから、血がにじみ出す。ブラック・ジャックが緊急にオペをしたところ、彼の体内にはさらなる謎が込められていた。かつて赤ん坊のころに確かに銃撃を受け、手術された痕跡があるのだ。しかもその痕跡に見られる手術の技量たるや、芸術家の域に達する天才的レベルなのであった。「おまえさんの手術をやった人間を知りたいんだ」「その男に会いたい!!その男こそ私のライバルなんだ!!」

健平が寝言で話した言葉をヒントに、ブラック・ジャック、ピノコ、健平の三人はエルサルバドル共和国にある小さな村 サンメリーダを目指す。同村を知っているというタクシーに乗り、ついに手術をしたファスナー神父にたどり着いたのだった。

かつて同国は政府軍とゲリラの内紛による混乱期にあった。妹のアニタや母親とともに撃たれたマリアは息を引き取る。報道特派員の日本人家族も巻き添えになって、赤ん坊は背中を二か所撃ち抜かれて死ぬ間際であった。なぜこんなにも理不尽なことが。神に訴えるファスナー神父に、声が聞こえてくる。「神父 メスをとるのです」「その赤ちゃんはおまえが助けるのです」 医科大学を卒業していたファスナー神父は神意に動かされ、マリアの体の一部を赤ん坊に移植し、奇跡的な手技でオペを成功させる。救われた命こそ健平だったのだ。

間違いなく手術をしたのはファスナー神父である。しかし、ブラック・ジャックがいくら問うても、神がおこなったのだとして神父は自身の力を否認する。二人は対抗するまま、物語は思いもかけない方向へ急激に動き出していく。

ブラック・ジャック「過ぎさりし一瞬」より


これは奇跡の物語ですが、意味的な多層性、ストーリー展開、セリフや微細な描写もとにかく素晴らしく、作品自体が奇跡のような完成度を湛えています。私はこの物語にとても惹かれてきました。

ここでは、「奇跡を生むは人為か神意か」「隠された合一のモチーフ」という2つの視点から、この物語を読んでみたいと思います。



2 奇跡を生むは人為か神意か

奇跡とは神意の実現なのでしょうか。神を持ち出さなくても、人知を超えた何かでしょうか。奇跡と思えるものさえ、人が尋常ならざる意志力で実現させる人為なのでしょうか。

ファスナー神父は、あの手術は神が私の手をとっておこなったもので、自分の力などでは全くないと言い張ります。他方、ブラック・ジャックはそんなことは信じない。あなたがやったのだ。神になど用はない。隠してもだめだ、あなたがその手でやったはずだ。嘘を言うなと。

ブラック・ジャックが人為を、ファスナー神父が神意を象徴していることは明らかです。

この物語が興味深いのは、奇跡の存在が「神父がおこなった手術」だけにみられるわけではないことです。実はいくつもの奇跡、人知を超えた偶然が織り込まれて構成されているところに、この作品の巧みさがあります。

そもそも健平のタクシーにブラック・ジャックが乗らなければ、この物語はスタートしようがない。アレルギーの再発が生じないからです。また、サンメリーダを知るタクシー運転手(*)を見つけられなければ、その運転手が元ゲリラでなければ、こいつが密告しなければ、そして何より、この密告者がブラック・ジャックに金をゆすりに来て殴りかかってこなければ、神父の窮地を救う不可欠のピースが揃わなかったのです。すべて意図された行為ではなく、何かが糸で導いているような展開ではないでしょうか。

他方、では人間の意志力は何も意味がなく、物語を動かす力を有していなかったか、というとまたそうではないのです。健平は必死でブラック・ジャックを探し出す。ブラック・ジャックは天才的技量を持つ外科医を見つけるため、どこまでも追求する。密告者を身代わりにすることやマリア像を使うことを思いついたのは、人為を象徴するブラック・ジャックでした。極限に研ぎ澄まされた精神であるからこそ、こうしたアイデアが湧き出る。振り返ると、赤ん坊の弾痕をわざと残したのは神意を強調するファスナー神父であったことも、注目すべきポイントでしょう。健平が銃創から出血しなければ、ブラック・ジャックは奇跡のオペを行った外科医を探し出す道に乗り出すこともなかったのですから。

こうしてみてくると、人間の強靭な意志力による行動が、見えない世界の何かを意図せずに動かし、揺らぎを生じたその不可視の世界から、人知を超えたものを呼び出しているように思えます。

すると、実は問うべき問いは「何が奇跡を生み出すか?」ではなく、「人知を超えたものを呼び起こすには人間はいかに行動すべきか?」、というように変容すべきであるということができるのではないでしょうか。



3 隠された合一のモチーフ

次に、合一のモチーフについてみてみたいと思います。これは特段めずらしいものではないと思いますが、「女性と男性の象徴的合一のモチーフ」です。

マリアが息を引き取り、その場に瀕死の赤ん坊である男の子がいる。神父の手術により両者は合一になり、赤ん坊という一つの命が救われる(不合理に殺されたマリアが、このことにより救われたのかどうか。それは読む人に委ねられた課題です)。

ところがこの物語にはもう一つ合一があります。それは、ファスナー神父とその窮地を救う「マリア像」との合一です。人身たるマリアとイコンたるマリア像の差異にも関わらず、同一の「マリア」名という共通記号が使われていることがこれを示唆します。

合一の契機は、ファスナー神父も赤ん坊と同様に、身体への銃撃という開始記号が付されて、やがて死が迫っているという窮地にあることです(神父は「いや……どうせ治ってもわしはいずれ処刑されるのです」と死を予期している)。そしてともに、マリアと赤ん坊にはファスナー神父、マリア像と神父にはブラック・ジャックという人の関与、媒介項の介在があります。

神父の身代わりにする密告者がいるのですから、ファスナー神父の隠し方など何でもいいはずですが、あえてマリア像に包まれて守ってもらうという形をとる、このことにより与えようとする意味合いは、身体を犠牲に供したマリアの再臨でありましょうか。

銃撃という身体への強烈な衝撃を受け、生死を分かつような窮地にあるところに、「マリア」がそのすぐそばにあり、そのためにマリアの体で一つの命が救われる、というモチーフが変奏されていることになります。



4 おわりに

この物語に潜む意味合いは、さらにいくつもあるようです。何度も読む中で、少しずつ探り当てていきたいと思います。




*奇跡はタクシーに乗り合わせるようである。手塚治虫には『ミッドナイト』というタクシードライバーを主人公にした作品もあります。タクシーへの意識的なのか無意識的なのか、特別なこだわりがあるように感じられます。





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