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メモ書き 佐藤信夫『レトリックの意味論』に寄せて

佐藤信夫『レトリックの意味論』(講談社学術文庫,1996)に寄せて
*要約等ではなく、同書の内容に必ずしも依拠しない私的メモ書きです。

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ゴルギアスが、「もし何かが存在するとしても知ることはできないし、もし知ることができるとしても他人にそれを伝えることはできない。なぜなら事物は言葉ではなく、かつ、誰も他人と同じものを心に思い描くことはできないからだ」と恐ろしいことを言う。

存在論、認識論、意味論のすべてにゴルギアスの罠が仕掛けられた。

言語で世界を把握し理論を作りあげ、これを表現し伝達しようとする側は、対ゴルギアス防衛を余儀なくされる。



ポール=ロワイヤル「論理学」は「ロゴスの構図」で防衛する。

世界(ないし現実)は分節構造を内在しており、これを明晰かつ判明に観念(意味)の分節構造に反映させる。かかる観念に随意的に名辞が割り当てられる。よって、名辞たちが編成する分節構造は世界の模型である。

つまり「世界」が「言語」を規定する。

*「明晰」かつ「判明」については同書71‐75頁.
*知性作用の「観念」と想像作用の「映像」については同書75-78頁.



これに対し、ソシュールが「逆ロゴスの構図」で対抗する。

世界は切れ目のない連続体であり所与の分節などない。記号学的構成原理において恣意性(随意性)のあるシニフィアンとシニフィエが相互に依存しつつ不分離のまま、自律的に言語記号の分節構造を編成し、この分節を世界に投射して切り分ける。

つまり「言語」が「世界」を規定する。



しかし、ソシュールは行き過ぎた(言語名称目録観という偏見を中和するために別の偏見を導入したようなもの)。

第1に、世界の非一様性(凹凸、濃淡、強弱のむらある模様)の看過である。言語は(世界と関係なく)自律的に恣意的に編成されるとするが、かかる言語が世界に対して分節作用を及ぼしうるためには、世界の側にその差異化を受け止める可能性としての非一様性がなければならないはずである。恣意性はフリーハンドではない。

第2に、観念(意味)の創発性、潜在可能性の看過である。ソシュールは言語から切り離された観念(意味)は識別しえず存在しないというが、そうだとすると、まだ名前のついていない観念(意味)を心に思い、識別することができないということになってしまう。世界に拘束されずに編成される言語の構成原理としての恣意性が、編成後は固定化した言語構造となって観念(意味)の創造性を縛ってしまうという背理を生む。

*「Aは、非Aではないこと」であるから、差異を認めこれを否定することから同一性が導かれる。



ゴルギアスに驚かされたので安心したいがために、意味の自己同一性の確保(そこから帰結される存在認識、認識伝達の原理的可能性)に専心していたところ、大事なことを見落とす結果となった。相手を否定しようとして自身が行き過ぎてしまった。


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既成の意味分節(編成された言語構造)には当てはまらない新しい意味を創造的に認識してしまった際は、これを隙間なく余りなく言い表す言葉がない。これについて、創造的な意味分節により新しい表現ないしシニフィアン(ソシュールの概念規定には反する)を作るか、あるいは既成の表現・シニフィアンを異なった意味で用いるか。

しかし正面から、意味は常に振動しつつ伸縮していること、弾性を持つことを認め、かかるものとして言語を捉えてもよいはず。

*意味の「弾性」と「多義性」の違いについては同書274‐277頁.


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言語の意味は弾性を持つ。

そのため、意味は非分節状態に融解しようとする傾向をもつが、分節性を本質とする表現ないしシニフィアン(ソシュールの概念規定には反する)に影響されて、弾性(その振動)は一定の範囲にとどまろうとする。



意味は、(ある範囲内においてではあるが)常に揺れ動いており浮遊している。

この意味の弾性・浮遊を抑え、非分節状態から分節状態へと向かわせるためにレトリックが要請される。あるいは、この弾性をあえて利用するかたちで言語を用いることが、レトリックである。



一応の私見として
・世界(ないし現実)は連続体であるが非一様である。言語は恣意性を有するが世界(ないし現実)にも規定される。
・意味の弾性の強調よりは、新しい分節を与えること。
・新しい分節を見いだすこと、伝えることのために、レトリックという「巧みなる言葉原理」が極めて重要。


【参考文献】
・佐藤信夫「レトリックと《意味》の弾性」『レトリック・記号 etc.』8頁(創知社,1986)



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