見出し画像

日本に出来るのか?『質の高い教育をみんなに』!?

 質の高い教育と言われて皆さんは何を思い浮かべますか?「賢い?」「頭がいい?」そういう事を言うのでしょうか?

今回話す内容はこちらの内容の続編に近い形になりますのでよろしければこちらも拝見してもらえると嬉しいです。

教育と民主主義

皆さんはこの本をご存知ですか?


こちらは村井 実さんが書いた作品教育と民主主義です。この本には『今の日本の教育は質が高いのか?』と言う疑問に関連する部分が書かれております。今回はこちらの内容を交えながら自分の意見を述べていきたいと思います。時々主観的な部分も入りますのでそこは分けていきたいと思います。

今の日本人は潜在能力が下がってる。

 この本の初っ端にこのようなことが書かれています。『現代の日本人は小心者化や狡賢さ、小物化が進んでいる。幕末の人のような力がない。』と幕末の頃が正しかったかは置いときますが、心の部分で言えばこの言葉は正しいと思います。村井 実さんは2005年にこの本を出したのですが現代だと2019年のデータによりますと15〜39歳のニートが74万人いるそうです。ニートが増えている理由としては働きにくいや『学歴フィルター』のせいで働けないと言う理由があるそうです。しかし、働こうと思えば働けるはずなのに働かない。こう言う部分から自分は考えたり、順応する力、人を思う力と言う潜在能力的部分は下がってると思います。

どうして落ちてるの?

なぜ潜在能力が落ちてるか、それは簡単なことです『学校生活、社会が個性、個人を尊重しないから。』皆さんはスウェーデンや海外は何を尊重してるか知ってますか?それは、『個人』です。『集団』でいる事よりも尊重して、出来ない人にも何か個性がある事を尊重してます。『そんなことしたら社会がに適合できないじゃん!!』と思う人もいると思います。しかし、それでも適合できたり働いているんです。個人個人が心の底からやりたい職についてやりたい事をしてる。その為の勉強だからモチベーションが上がる。モチベーションが上がると人は考え潜在能力も低下しにくくなりますし、大学なんて行きたい人だけが行けばいいと言う考えが多いですし、行かなくてもいい会社は行けます。しかし、日本はどうでしょう?『学歴フィルター』と言うものが存在して個性を尊重するどころか社会はそれを殺すから適合出来るようにする。順位にこだわるようにさせたりある程度能力がない人を切り捨てたり、クラスの子ども達まで中学、高校、大学に行くと他人を蹴落としたり、虐めたりする。顔がいいから、能力があるから上っ面でも人と付き合う。自分の意見よりかも上の人の意見を尊重する。そうやって生きて来てやっと社会に出ても上司に怒鳴られ、出来ないと爪弾き。そもそも教育は義務だから子どものモチベーションも上がらない。『やらなきゃいけない』からやってる。テストだけ出来ればいい。世渡りが上手ければ良い。社会でも同じ。こんな社会でできる教育は『質』と言えるのでしょうか?

そもそも教育とは何か?

 では、教育とは何でしょうか10000万円札に記されてるぐらい有名な人福沢諭吉の考える教育はこのようなものは要約すると「教育は頭を良くすることじゃない。教育は『人』の変化に関わるものだから決して学校だけでは学べない。家族での家風の教えや盟友との交わり、社会全般の雰囲気を含んで成り立つもの。」と考えています。頭の良さ=教育ではなくて人として自立することが必要とのこと。『エリクソンの発達課題』と呼ばれるものがあります。

この図のものなのですが乳幼児期とか書いてあるのですがその時期までに黄色のものを獲得しておかないといけないと言うものです。もし出来なければその子の心は青いものを獲得してしまう。と言うものです。一例を挙げますと

乳幼児期までに基本的信頼を獲得しないと何も信じられなくなってしまう(基本的不信)

とどこかで黄色を獲得できないとそれからずっと青になってしまいます。ですが、この発達課題を達成できてる人はどれだけなのでしょうか?皆さんはしっかりできてますか?出来てない人も多いのではありませんか?それは悪いことではないと思います。何故なら『社会とこの発達課題は水と油のようなものだから』発達課題の達成は福沢諭吉の言葉を借りるとゆっくりと成り立つもの。しかし、社会が求めるのはその反対のもの。『速く、自分達に従うもの』を作る事を望んでます。特に日本は未だにその色を濃くしています。パワハラやいじめ、虐待など日に日に増えてるだけではなく教育を教える立場の教員がそれを行って事件になる。このことから教育の概念が乱れているのではないでしょうか?幕末の頃はボランティアとして貧しい子どもに教えていたもの。先生が生きてくのに必要な事を教え、盟友を見つけたり、生きていくためにあったもの。しかし、明治維新以降欧米列国に勝てる強い国を育てる為教育を義務とし、先進国と肩を並べられるようにしたが、人の心というのはその時から退化していったのかも知れません。明治以降の戦争はそもそも政府が国民の意見を聞かないで決めた事なのでしょうか?それは違います。国民が選挙で投票した事なのです。日本人が勝てると思って投票した、国は自分達の国を強くする為に行った事。そうでもしないと他の国に強い事をアピール出来なかった。アピールしないと属国にされてしまうと思っていたからです。しかし、そんな時代は終わりGHQによって変わったのにむしろ退化の道を進むこととなった。では、何がいけなかったのでしょうか?

政治と教育の混合

村井 実さんの本にはこのように書かれてます。『政治と教育の分離』をすることが一番良い。
 学ぶことは先程も行った通り心や人間性と言った非認知能力と呼ばれるものを育てること。知識を無理やり入れることは教育よりかも政治的な行いだとされてます。要するに『職に必要な知識』は政治の分野『道徳や心』は教育の分野であることが本来は望まれます。しかし、日本はその二つを一つにしていてこれはとんでもないことです。福沢諭吉はこの二つの混合は『見当違いの医療を国民に施すようなもの』と言ってます。『頭の良さを重視して馬車馬のように働く駒を作る。』生き物にそんな調教をしていたら何処かで皺寄せがくる。だからこそこの二つは混合させてはいけないものです。しかし、国はそれを行ってる。日本以外でも韓国などは学歴を重視してますが、やはり少子高齢化が進んでいるそうです。


質の良い教育とは?


 では、質の良い教育とはどう言うものだと言うのでしょうか?村井 実さんはこのように考えてます。『善いことを教えるべきだ』と
では、『善い』こととは何でしょうか?ボランティア?助け合い?そういうのは『良いこと』ではないでしょうか?村井 実さんはアリストテレスの考えた『善いこと』を指してます。アリストテレスは『善いこと』は人の為に行うような「断定的」なものを指してるのではありません。もっと「哲学的」な善いこと、偽善や人の為ではないもっと根本的にあるもの、人が何かをしようとする時に無意識に働くもののこと。例えばご飯を食べようと思ったら箸を持ってたり寝ようとしたら瞼を閉じてたりなど人間の欲求を満たすものや何かを求めて行うもののことを『善いこと』としてます。ですが、自分の欲求を満たす獣のようなことをしていることを善いことと言うのは社会の否定になってしまいます。それを今の人間がしてしまえば世界は滅びてしまうかもしれません。でしたら、『善いこと』を定めることが必要ではないでしょうか?


みんなに送るには

 質の高い教育をみんなに送るにはまずは『善いこと』を決めることが必要だと思います。『山』という言葉が本当の山を表してるように『善いこと』というものに形をあげれば良いと思います。そして、どんな形にするか、どんな意味を持たせるか、それを決めることから始めることがSDGsに向き合うこと、考えることだと思います。特に、今カースト制度みたいな国である日本は一番考えないといけないと思います。教育と政治を混ぜたせいで教員も自分のノルマ(学習計画書で決めたもの)を達成させることを考えて先生の役割というのが疎かになってると思います。先生と言うのは本来方針として縛ってはいけないもの、一人一人を尊重し心を育て、若い人に生きる希望を与えるもの。ですが、それが忘れ去られて来てるから国が悪くなって来てる。希望がないから自殺する人も増えてる。人からすれば他人事かもしれませんし、できることなんて小さい。しかし、小さくても良いんです。記事を書いて発信する。それを見たい人が見る。皆さんの行いこそ『善いこと』、見た人の心を育ててるのです。この記事を見てくれた人の『善いこと』に繋がってるのでしたら自分はこの記事を書いたことに意味があると思います。そして、願わくば未来の教育が心を育てることに重点を置き社会が良くなっている事をか細い可能性ですがそうなってることを願ってます。





この記事が参加している募集

読書感想文

SDGsへの向き合い方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?